蝋板に鉄筆で

自由帳

宇宙よりも遠い場所

1.

宇宙よりも遠い場所」を12話まで鑑賞した。今思えば,必ずしも明らかではないが,私は従前,個人の問題と二人間,三人間及び更に大きな集団間に特に生起する人間関係それ自体の問題を切り分けて論じるよう努めてきたように思う。しかるに本作は,私の問題意識から言えば,高度に善良な人間関係が,個人の問題を解決する手掛かりを与える場合を示しているように思う。どう考えるべきか。まずもって,本作12話において,とりわけ焦点の当てられた報瀬の旅の目的に議論の対象を絞って考え,その思考の過程を記す。

 

 

2.

既に亡くなった母の報瀬はこの旅を「最後の旅」と称した。このことと,キマリの「南極に来たおかげで私は青春できた」という趣旨の発言の対照が重要な意義を持つ。報瀬にとっての終わりが,キマリにとっての始まりであったことになる。加えて恐らくは,報瀬にとっってもこの旅は終わりでなく,始まりになりうると解する道があることが,最終回では示されなければならない。

 

3.

その為に報瀬には何が必要だったか。まずは母の旅路が途絶えたことを,母の旅路の全てを追うことで確認しなければならない。そうしなければ報瀬は前に進めない。前に進めないと考えている。

さて,母の旅路が途絶えたことと,そのことを報瀬が確認したことは,一行が報瀬の母のPCを発見し,これを起動したところ報瀬が送ったメールが未読のままに何百何千と溜まっていたシーンが挿入されることで,印象的に表現された。報瀬の道は少なくとも,母の背中を追うだけでは切り拓かれない。どうすべきか。そもそも報瀬は何を目指すべきか。単に南極を目指すのではない。これから何を為すのか。

 

或いは,南極に来る過程で何を為したのか。残りの三人が,報瀬の旅に単に母の背中を追う旅というだけではない意味を加えたことは確実である。それを報瀬が如何なる過程で認識し,新しい問題を発見し,それに取り組むか。残りの三人が南極への旅で各人抱えていた個人の問題を解決した一方,報瀬の問題はそれが報瀬自身が追求すべき終局的な問題ではないのだろう。そしてそうであることが明らかになった上で,なお新しい問題を発見しうるか,或いは意識されていなかった問題及びその解決への道筋が,母の背中を追うという過程を経て忽然と浮かび上がってくるか,そうなった場合に,残りの三人が報瀬の新しい問題発見及び解決に如何なる作用を及ぼしたかを如何なる観点から分析するか,こういった一連の複雑な事柄を検討しなければならない。

1-9

今日は折角のタイミングに何一つ話すことが出来ず,何一つ考えていないことを暴かれ,最近如何に碌でもない生活を送っていたかが一目瞭然明らかとなり,非常にプライドを刺激されたので,もう少し脳を働かせて生きようと思った。いくら問題意識が重要と嘯いても,それを深めることがないのであれば生きている意味が無いので。

少女終末旅行

昨日『少女終末旅行』が最終回を迎えたので、最終回を読んで受けた感銘に絞って完結に述べる。

 

私は、最終回を迎える以前から、本作の世界が既に終わっており、上から下まで虚無で満たされていると考えていた。従って、チトとユーリが上を目指したとしても、そこには結局何もないだろう、だからチトとユーリのやっていることは無意味だ。大意このように考えていた。

実際、チトとユーリが辿り着いた世界の頂上には何もなかった。チトはユーリに問う、「私たち、これで正しかったのかな」と。もっと早く引き返していれば、食料のある場所を探し歩いていれば、運命が尽きることもなかったのではないか?

この問いに対するユーリの回答とそれに連なるエンディングこそまさに本最終回の白眉である。ユーリは答えるのだ、「生きるのは最高だったよね」と。世界の意味もあるべきだった生き方も分からない世界で、それでもなお生きることそれ自体を全肯定する結末を迎えるなどとは、私には思いもよらなかった。

エンディングも、私が当初予想していた二人の死で終わるという結末とは異なっていた。これから二人がどうするか、開かれているのである。勿論二人は長くは生きられないだろう。既に世界は終わっているのだから。でも、自ら死を選ぶシーンは描かれず、二人がこれからどうするかは二人がこれから決めるのである。恐らく二人は、まだもう少しだけ生きるのではないか。これまで生きてきた道筋は最高だったのだから。これからこの終わった世界で生きる道筋も、彼女達なら肯定できるだろう。

 

本作最終話のユーリの主張は、何らかの「祈り」であると言い得るように思われる。「祈り」という概念について、「祈り」概念を持ち出すことの適否を含めて、私は今のところ明晰な認識を持てていないので、また別の機会に議論したいと思う。

放課後のプレアデス

放課後のプレアデス4話において取り扱われるひかるの問題は極めて繊細であるところ,その言語化を簡潔に行っておく。

 

父の曲にソの音を書き入れたひかる,その箇所をずっと聴けなかったひかる。それは何故か。最後まで聴いたら,きっと泣いてしまうから。

ならばひかるが泣くことを恐れるのは何故か。何かを受け止められないから泣くのだとすればそれは何か。

ちっぽけな見栄で,親の愛を素直に受け止められない。差し当たり,ひかるの弱さがそこに示されている。それに本当は分かっていたんだろう。ひかるが楽譜にソの音を書き加えたことに父親が怒ってなんていないことを。そうでなくて,ひかるが書き入れたソの音ごとその曲を愛して,そうしたひかるを愛して,愛して,愛していたことを。

でも,ひかるは両親を愛していて,両親もひかるを愛していて,それなのに,ひかるのほんのほんの小さな見栄で,お互いに伝えられずにいる,伝わらずにいる。お互い分かっているはずなのに。こんなところだろうか。

けいおん!-4

けいおん!シリーズ全体の意義を簡潔に述べる。

けいおん1期は、①善なる人間が②自らの興味関心に即応した③小コミュニティを形成した場合の成功例を端的に示している。①②③の要素の全てが重要である。けいおん1期はあくまで善良な人間が集うことによるポジティブな作用を叙述する作品であり、悪質な人間が善良な人間に感化されて善を拡大することが可能かという難問には未だ挑戦していない。むしろ、コミュニティ形成の任意性と規模の極小性と二つの要素を駆使して、悪質な人間の参入を防いだ上で活動の質を保っている点に特徴があるということである。

けいおん2期においては、1期における良質なコミュニティの存在を前提として、コミュニティの時的存続可能性が問題とされる。軽音部は任意性に重要な基礎を置くコミュニティであり、存続の決定権はコミュニティの構成員に委ねられている。そして2期1話において、彼女らはコミュニティを存続させないことを総意でもって決定した。けいおん2期は、彼女らの決定の帰結と代償を24話ないし27話掛けて描いた物語であるとも捉えられる。

もっとも、けいおん2期はコミュニティの終了後における構成員の在り方について、十分煮詰まった解を提示しているとはいえない。構成員のうち、3年生組4人は進路を同じくしてしまうことでコミュニティの消滅の意義が曖昧になってしまうし、また3年生組が卒業して一人残される梓に対しても、唯が24話において「心が繋がっているから大丈夫だ」という趣旨の発言をするのみであり、コミュニティの消滅後に残された実質的な手当ての在り方は何ら明らかになっていない。ここにけいおん2期の限界があることは周知の通りである。

とはいえ、けいおん!シリーズが1期2期を通じて、良質のコミュニティの形成及びその存続の問題について明晰に意識した上で取り組んだことは疑いがない。なお残された問題が多いとしても、小規模コミュニティの理想的な在り方とその限界を示すという目標は十二分に果たされていると言えよう。

SHIROBAKO

SHIROBAKOは私にとって他のアニメで代替し得ない最高アニメの一つであり、決して語り尽くすことができない。そこで、ごく簡単な形で、SHIROBAKOの魅力を素描する。

本作は、本当にありふれた易しいテーマを、アニメ制作という特殊な素材で語るところに大きな特徴があると考える。両方の点が相俟って本作を名作たらしめている。まずテーマについて概略を述べるとすれば次の通りになる。

 

1.

本作のテーマは、①これから自分が何をしたいか、②①のように考えるのは何故か、の二つである。極めて簡明な問いであるとともに、いかなる筋道で回答に至るかはともかくとしても回答の幅は非常に広いと考えられる。これほど単純な問いに回答するためだけに、24話という潤沢な時間を用いているのであり、しかも決して飽きさせない。

本作のテーマにつき回答を与えるのは具体的に誰かという問題がある。これについては、①と②の問いの双方の回答者はあおいであると見るべきだと考える。勿論①については残りの主要メンバーたる絵麻、しずか、美沙、みどりの問題としても、十分な尺を取って描かれているし、②についても20話でみどりの問題として描かれている。しかし、あおいにおいては4話Bパートのあおいと絵麻との会話において①の問題が提起されて以降、回答を出せないままに19話まで引っ張っている。また①が解決するやいなや直ちに答えられなければならない②の問いについても、みどり他沢山の人々の回答を導きの石として、最終的な回答を得るに至っている。この過程から見れば、やはり①と②の問いに最も深刻に悩みかつ回答を出すことを迫られているのはあおいであると見るべきであろう。

 

フレームアームズ・ガール

標記の作品を鑑賞した。あまり私向きの作品ではなかったが、それでも感じ入るところはあり、また近年(と言い切れるほど昨今及びそれ以前の作品に詳しいわけでは全くないが)の流行(?)とでも言い得る人間関係の描写が為されていたように感じたので、備忘にメモを残しておく。

 

本作全体の趣旨から、源内あおとFAガールの関係は、差し当たり母娘関係に近似しうると言ってもそう大きく外したことにはならないだろう。ブキ子が12話BパートでFAガール達の為にクリスマスツリーを買うあおに対して言った言葉はその強い根拠となる。しかしながら、そこから進んで、どこが近似の限界なのか探る必要はあろう。

例えば、当然のことながら、あおとFAガールとの間には血縁関係はない。それにもかかわらず、あおはFAガールに無償の愛を注いでいる…とまで言えば言い過ぎだろうが、少なくとも非常に強い包容力で以ってFAガールの存在を受け入れている。人間関係の希望を拓く方向の主張があることになる。

加えて見逃し得ないのは、12話Bパートで轟雷があおの苗字を求めたこと及びあおがそれをいとも容易く轟雷に差し出したことだろう。血縁関係のない者が氏を得るのはつまるところ養親子関係の発生であるが、あおからすれば、現時点でのあおと轟雷の関係に養親子関係という近似値を与えたに過ぎないのだろう。では現時点でのあおと轟雷の関係は何に支えられるか。言うまでもなくFAガールのバトルデータ収集に留まらない思い出の数々によってである。

あまりに月並な結論ではあるけれど、思い出の蓄積を、友情以外の、恐らくは友情よりもっと尊い関係に紐付けたことは意義深いことと感じられる。