蝋板に鉄筆で

自由帳

SHIROBAKO

SHIROBAKOは私にとって他のアニメで代替し得ない最高アニメの一つであり、決して語り尽くすことができない。そこで、ごく簡単な形で、SHIROBAKOの魅力を素描する。

本作は、本当にありふれた易しいテーマを、アニメ制作という特殊な素材で語るところに大きな特徴があると考える。両方の点が相俟って本作を名作たらしめている。まずテーマについて概略を述べるとすれば次の通りになる。

 

1.

本作のテーマは、①これから自分が何をしたいか、②①のように考えるのは何故か、の二つである。極めて簡明な問いであるとともに、いかなる筋道で回答に至るかはともかくとしても回答の幅は非常に広いと考えられる。これほど単純な問いに回答するためだけに、24話という潤沢な時間を用いているのであり、しかも決して飽きさせない。

本作のテーマにつき回答を与えるのは具体的に誰かという問題がある。これについては、①と②の問いの双方の回答者はあおいであると見るべきだと考える。勿論①については残りの主要メンバーたる絵麻、しずか、美沙、みどりの問題としても、十分な尺を取って描かれているし、②についても20話でみどりの問題として描かれている。しかし、あおいにおいては4話Bパートのあおいと絵麻との会話において①の問題が提起されて以降、回答を出せないままに19話まで引っ張っている。また①が解決するやいなや直ちに答えられなければならない②の問いについても、みどり他沢山の人々の回答を導きの石として、最終的な回答を得るに至っている。この過程から見れば、やはり①と②の問いに最も深刻に悩みかつ回答を出すことを迫られているのはあおいであると見るべきであろう。

 

フレームアームズ・ガール

標記の作品を鑑賞した。あまり私向きの作品ではなかったが、それでも感じ入るところはあり、また近年(と言い切れるほど昨今及びそれ以前の作品に詳しいわけでは全くないが)の流行(?)とでも言い得る人間関係の描写が為されていたように感じたので、備忘にメモを残しておく。

 

本作全体の趣旨から、源内あおとFAガールの関係は、差し当たり母娘関係に近似しうると言ってもそう大きく外したことにはならないだろう。ブキ子が12話BパートでFAガール達の為にクリスマスツリーを買うあおに対して言った言葉はその強い根拠となる。しかしながら、そこから進んで、どこが近似の限界なのか探る必要はあろう。

例えば、当然のことながら、あおとFAガールとの間には血縁関係はない。それにもかかわらず、あおはFAガールに無償の愛を注いでいる…とまで言えば言い過ぎだろうが、少なくとも非常に強い包容力で以ってFAガールの存在を受け入れている。人間関係の希望を拓く方向の主張があることになる。

加えて見逃し得ないのは、12話Bパートで轟雷があおの苗字を求めたこと及びあおがそれをいとも容易く轟雷に差し出したことだろう。血縁関係のない者が氏を得るのはつまるところ養親子関係の発生であるが、あおからすれば、現時点でのあおと轟雷の関係に養親子関係という近似値を与えたに過ぎないのだろう。では現時点でのあおと轟雷の関係は何に支えられるか。言うまでもなくFAガールのバトルデータ収集に留まらない思い出の数々によってである。

あまりに月並な結論ではあるけれど、思い出の蓄積を、友情以外の、恐らくは友情よりもっと尊い関係に紐付けたことは意義深いことと感じられる。

恋は光-2

『恋は光』の既刊部分を全て読み終えたが、本当に最高の作品だと感じている。しかしながら本作の何に言及すると有意味なのか、非常に悩んでいる。いや、有意味なことにコメントしなければならないという限定があるわけではないので、何をコメントしてもいいのかもしれないが、コメントしようとすると何か得体の知れない感情に襲われて、どうにもまとまらない。書こうとしていることが何も形にならないということだけこうして形にしておく。

恋は光

『恋は光』シリーズを読み始めている。本作は、登場人物が自身の感情それ自体を、感情の発生原因にまで遡りながら具体的に言語化することが徹底されており、従って精密な議論の対象にしやすいように思われる。他面それは読者の側もまた本格的な議論に堪え得る入念な準備を行う必要があることを意味する。そして私は現時点では何らの準備もなし得ていない。

それでもなお今言えそうなことは、本作を読むにあたっては、「恋愛とは何か」を読者自身が考えることよりも、①「恋愛とは何か」を考えるとはそもそもどういうことか、また「恋愛とは何か」を考える人々はどのような人々か、もう少し抽象的に広く捉えれば、②感情を言語化しようと試みる人々はいかなる特質を有するか、という問いを立てたほうがより建設的なのではないか、ということだけである。「恋愛とは何か」という問題を詰める作業を本作の登場人物が行っているとしても、読者自身も同じ問題に取り掛かる必要はなく、むしろその議論の筋を追って比較検討し、議論することの意味自体を考える必要があるのだろう。

そして喫緊の課題は、そう言いうる根拠は何かを言語で述べることである。

ステラ女学院高等科C3部-3

3.

先日知人と議論した結果、霊的存在が本作の非常に重要な構成要素として浮かび上がってくることが判明した。ゆらの内面の問題との関係では霊的存在の意義は極めて大きい。そしてまた本作で霊的存在が本重要視されていることは、本作が他にも多数の問題提起(その詳細については今後より正確に詰める必要がある)を行いながら、事実上の最終回である12話でその殆どに解答を与えなかったことの理由を考える上でも重要なポイントとなりうる。そこで本作での霊的存在の描かれ方とその意義について極々簡単に言及しておく。

 

本作はゆらの内的生活について1話から継続してスポットを当てているという点をまずは押さえる必要がある。もとよりゆらは非常に豊かな内的生活を有しているおり、しばしばゆらは自らの置かれた状況を脳内で想像力逞しく増幅する。非常に内向きで内省的な人間である。

この内省はしかし、ゆらが内面に抱える問題を解決するうえで必ずしも役に立たない。ゆらは状況を増幅するだけで、自らの抱える問題の核心を捉える力に優れているとは言えない。袋小路に陥ったとき、ゆら一人では状況を打開できないのである。

そこで一歩進んで、ゆらがいわば悟りを開くために、霊的存在が出現して進むべき道を指し示すことになる。本作では霊的存在は問答の相手方とはなっておらず、ゆらの内省もそれに基づく行動も何ら功を奏さないデッドロックを打開する切り札としての役割を持たされているように思われる。

もっとも、霊的存在が解決する問題はあくまでゆらの内的生活に関わるものに留まる。ゆらが悟りを開いたところで、例えばC3部におけるカリスマの問題やC3部の他の面々とのコミュニケーション不全について何か解決策が得られるわけでもない。このことが一方で12話をいかにも消化不良に思わせる要因となっている。他方で、ゆらを取り巻く外在的な問題はあくまでゆらの内省を深め、ついには袋小路に追い込むための道具立てに過ぎないとの見方も可能であろう。そうだとすれば、視聴者としてはいささか拍子抜けではあるけれども、作中で提起された一連の重要な問題群に殆ど解答を与えず、単にゆらの内的生活の成熟のみを描いた12話の態度も一応正当化されることになろう。

ステラ女学院高等科C3部-2

2.

何らかの人間の集団を描くアニメは数多存在し、勿論本作で描かれるC3部もある種の人間の集団である。ではC3部の特質とは何か。ある見解によれば、本作は所謂オタクサークルで生じがちな問題の一局面を描いた作品であるという。私はこの見解に賛同するものではないけれども、なお本質を掠める見方だと思われる。そこで本見解を起点にして、C3部の特質に迫っていこうと思う。

 

オタクサークルを特殊な嗜好を持つ人々の寄り集まった人的集団と捉えれば、先に述べた見解の指摘する通り、C3部は所謂オタクサークルとして描かれていると見ても差し支えなかろう。本作においては(と言うよりは一般に)、サバゲーをする女子高生は特殊で珍しい存在であり、したがってそのような嗜好を持つ人々が寄り集まっているC3部はまさにオタクサークルと言いうるだろう。

そして本作では、サバゲー好きな女子高生が珍しい存在であるという前提が幾つかの局面で鍵になっている。例えばC3部の部員が、他にめぼしい理由がなくともとりあえずゆらを誘おうとした動機は、案外このあたりにあったのかもしれない。この点前回の記事における考察は不十分であった。

しかしそれよりも遥かに重要なのは、サバゲー好きな女子高生という希少な存在であり、かつ最高の腕前を持つ鹿島そのらという人物が、まさにそれゆえにこそ圧倒的なカリスマを以てC3部に君臨していたということである。属性の希少性は、そのらのカリスマをより際立たせるという点において意味を有するのである。

 

実のところ、問題の本質はそのらのカリスマを巡るC3部という組織の在り方にこそ損するのである。すなわち、C3部の特質は活動内容の特殊性よりもむしろ、圧倒的カリスマを有するプレイヤーとその信者で構成されているという点にこそ見出されるのである。信者同士の関係は希薄で淡白であったとしても、そのらのカリスマを媒介にしてC3部の部員は結合しうる。その上実際のサバゲーにおける指揮命令系統の存在は、そのらのC3部における地位をいやが上にも高める。

ゆらもまた、そのらに憧れてC3部に入部したメンバーの一人であった。しかし、彼女はそのらにはなれなかった。C3部がそのらを欠いたとき、ゆら以外の4人はサバゲーの試合に対するモチベーションそのものをも失っていたように見える。ゆらは4人を鼓舞したが、彼女にはカリスマがなかった。ゆらは優れたプレイヤーではあったかもしれない。しかしC3部の中核たるそのらに代わる新たな結節点にはなり得なかったのである。

ステラ女学院高等科C3部

C3部を全話鑑賞した。差し当たり13話は本当にどうしようもない出来なので観なかった振りをするが、それでもなお言及するに値する破局が描かれていたように感じる。現時点で破局に至る要因を完全に解明することには困難を感じるものの、既に幾つかの手掛かりは掴んだように感じるので、しばらくは備忘のため少しずつそれらを記していくことにする。

 

1.

最初に立てられるべき問いは、「なぜC3部のメンバーは大和ゆらを勧誘したか」である。実際、部員不足のため何としてでも新入部員を確保しなければならないとか、サバゲーの魅力を学院の新入生に広めたいとか、そういった何らか明確で切迫した動機がC3部メンバーにあったようには思われない。そしてその割には、2話でゆらがC3部に入るかどうかはっきりしない態度を取ることに対して金髪が不平を述べるのである。なにそれ?と思うわけである。

折角問いを立てておきながらこのように言いたくはないのだが、どうも上の問いに対する解答は本作には存在しないように思う。一応そのらは、理想的な力加減で銃を握る天性を持つゆらに期待を掛けて、比較的積極的な理由からC3部への入部を勧めたようには思う。しかしその他4人については恐らく、上の問いへの解答に相当する思想を何ら持ち合わせていない。どうしようもない連中だ、と評するよりほかない。

C3部のメンバーがゆらを勧誘した理由が明確でないことは、ゆらがC3部における自分の居場所、存在意義をなかなか見つけられないという事態として跳ね返ってくる。3話でゆらが死んだ仲間を見捨てて投降した場面はこのような観点から解釈できる。そのらが「仲間の犠牲を無駄にして逃げ出した」と評したところのゆらの行動は、ゆらが恐怖心に打ち克てなかったことよりもむしろ、C3部のメンバーにとってゆらがさした大事な存在ではなかったのと同じように、ゆらにとってもまたC3部のメンバーが大事な存在ではなかったからなのではないか、とも思われるのである。

もっとも3話の戦闘後のシーンはそのらがゆらに対して明確に自分の意見を伝えた数少ない(殆ど唯一の)場面であり、本作を全体として観た場合にはゆらが比較的まともに(?)取り扱われた機会であったとも言える。そのらの悪辣な不作為については口を極めて批判せざるを得ないのだが、3話に限って言えばそのらはゆらと向き合う努力をしていたように感じられる。