蝋板に鉄筆で

自由帳

恋は光-2

『恋は光』の既刊部分を全て読み終えたが、本当に最高の作品だと感じている。しかしながら本作の何に言及すると有意味なのか、非常に悩んでいる。いや、有意味なことにコメントしなければならないという限定があるわけではないので、何をコメントしてもいいのかもしれないが、コメントしようとすると何か得体の知れない感情に襲われて、どうにもまとまらない。書こうとしていることが何も形にならないということだけこうして形にしておく。

恋は光

『恋は光』シリーズを読み始めている。本作は、登場人物が自身の感情それ自体を、感情の発生原因にまで遡りながら具体的に言語化することが徹底されており、従って精密な議論の対象にしやすいように思われる。他面それは読者の側もまた本格的な議論に堪え得る入念な準備を行う必要があることを意味する。そして私は現時点では何らの準備もなし得ていない。

それでもなお今言えそうなことは、本作を読むにあたっては、「恋愛とは何か」を読者自身が考えることよりも、①「恋愛とは何か」を考えるとはそもそもどういうことか、また「恋愛とは何か」を考える人々はどのような人々か、もう少し抽象的に広く捉えれば、②感情を言語化しようと試みる人々はいかなる特質を有するか、という問いを立てたほうがより建設的なのではないか、ということだけである。「恋愛とは何か」という問題を詰める作業を本作の登場人物が行っているとしても、読者自身も同じ問題に取り掛かる必要はなく、むしろその議論の筋を追って比較検討し、議論することの意味自体を考える必要があるのだろう。

そして喫緊の課題は、そう言いうる根拠は何かを言語で述べることである。

ステラ女学院高等科C3部-3

3.

先日知人と議論した結果、霊的存在が本作の非常に重要な構成要素として浮かび上がってくることが判明した。ゆらの内面の問題との関係では霊的存在の意義は極めて大きい。そしてまた本作で霊的存在が本重要視されていることは、本作が他にも多数の問題提起(その詳細については今後より正確に詰める必要がある)を行いながら、事実上の最終回である12話でその殆どに解答を与えなかったことの理由を考える上でも重要なポイントとなりうる。そこで本作での霊的存在の描かれ方とその意義について極々簡単に言及しておく。

 

本作はゆらの内的生活について1話から継続してスポットを当てているという点をまずは押さえる必要がある。もとよりゆらは非常に豊かな内的生活を有しているおり、しばしばゆらは自らの置かれた状況を脳内で想像力逞しく増幅する。非常に内向きで内省的な人間である。

この内省はしかし、ゆらが内面に抱える問題を解決するうえで必ずしも役に立たない。ゆらは状況を増幅するだけで、自らの抱える問題の核心を捉える力に優れているとは言えない。袋小路に陥ったとき、ゆら一人では状況を打開できないのである。

そこで一歩進んで、ゆらがいわば悟りを開くために、霊的存在が出現して進むべき道を指し示すことになる。本作では霊的存在は問答の相手方とはなっておらず、ゆらの内省もそれに基づく行動も何ら功を奏さないデッドロックを打開する切り札としての役割を持たされているように思われる。

もっとも、霊的存在が解決する問題はあくまでゆらの内的生活に関わるものに留まる。ゆらが悟りを開いたところで、例えばC3部におけるカリスマの問題やC3部の他の面々とのコミュニケーション不全について何か解決策が得られるわけでもない。このことが一方で12話をいかにも消化不良に思わせる要因となっている。他方で、ゆらを取り巻く外在的な問題はあくまでゆらの内省を深め、ついには袋小路に追い込むための道具立てに過ぎないとの見方も可能であろう。そうだとすれば、視聴者としてはいささか拍子抜けではあるけれども、作中で提起された一連の重要な問題群に殆ど解答を与えず、単にゆらの内的生活の成熟のみを描いた12話の態度も一応正当化されることになろう。

ステラ女学院高等科C3部-2

2.

何らかの人間の集団を描くアニメは数多存在し、勿論本作で描かれるC3部もある種の人間の集団である。ではC3部の特質とは何か。ある見解によれば、本作は所謂オタクサークルで生じがちな問題の一局面を描いた作品であるという。私はこの見解に賛同するものではないけれども、なお本質を掠める見方だと思われる。そこで本見解を起点にして、C3部の特質に迫っていこうと思う。

 

オタクサークルを特殊な嗜好を持つ人々の寄り集まった人的集団と捉えれば、先に述べた見解の指摘する通り、C3部は所謂オタクサークルとして描かれていると見ても差し支えなかろう。本作においては(と言うよりは一般に)、サバゲーをする女子高生は特殊で珍しい存在であり、したがってそのような嗜好を持つ人々が寄り集まっているC3部はまさにオタクサークルと言いうるだろう。

そして本作では、サバゲー好きな女子高生が珍しい存在であるという前提が幾つかの局面で鍵になっている。例えばC3部の部員が、他にめぼしい理由がなくともとりあえずゆらを誘おうとした動機は、案外このあたりにあったのかもしれない。この点前回の記事における考察は不十分であった。

しかしそれよりも遥かに重要なのは、サバゲー好きな女子高生という希少な存在であり、かつ最高の腕前を持つ鹿島そのらという人物が、まさにそれゆえにこそ圧倒的なカリスマを以てC3部に君臨していたということである。属性の希少性は、そのらのカリスマをより際立たせるという点において意味を有するのである。

 

実のところ、問題の本質はそのらのカリスマを巡るC3部という組織の在り方にこそ損するのである。すなわち、C3部の特質は活動内容の特殊性よりもむしろ、圧倒的カリスマを有するプレイヤーとその信者で構成されているという点にこそ見出されるのである。信者同士の関係は希薄で淡白であったとしても、そのらのカリスマを媒介にしてC3部の部員は結合しうる。その上実際のサバゲーにおける指揮命令系統の存在は、そのらのC3部における地位をいやが上にも高める。

ゆらもまた、そのらに憧れてC3部に入部したメンバーの一人であった。しかし、彼女はそのらにはなれなかった。C3部がそのらを欠いたとき、ゆら以外の4人はサバゲーの試合に対するモチベーションそのものをも失っていたように見える。ゆらは4人を鼓舞したが、彼女にはカリスマがなかった。ゆらは優れたプレイヤーではあったかもしれない。しかしC3部の中核たるそのらに代わる新たな結節点にはなり得なかったのである。

ステラ女学院高等科C3部

C3部を全話鑑賞した。差し当たり13話は本当にどうしようもない出来なので観なかった振りをするが、それでもなお言及するに値する破局が描かれていたように感じる。現時点で破局に至る要因を完全に解明することには困難を感じるものの、既に幾つかの手掛かりは掴んだように感じるので、しばらくは備忘のため少しずつそれらを記していくことにする。

 

1.

最初に立てられるべき問いは、「なぜC3部のメンバーは大和ゆらを勧誘したか」である。実際、部員不足のため何としてでも新入部員を確保しなければならないとか、サバゲーの魅力を学院の新入生に広めたいとか、そういった何らか明確で切迫した動機がC3部メンバーにあったようには思われない。そしてその割には、2話でゆらがC3部に入るかどうかはっきりしない態度を取ることに対して金髪が不平を述べるのである。なにそれ?と思うわけである。

折角問いを立てておきながらこのように言いたくはないのだが、どうも上の問いに対する解答は本作には存在しないように思う。一応そのらは、理想的な力加減で銃を握る天性を持つゆらに期待を掛けて、比較的積極的な理由からC3部への入部を勧めたようには思う。しかしその他4人については恐らく、上の問いへの解答に相当する思想を何ら持ち合わせていない。どうしようもない連中だ、と評するよりほかない。

C3部のメンバーがゆらを勧誘した理由が明確でないことは、ゆらがC3部における自分の居場所、存在意義をなかなか見つけられないという事態として跳ね返ってくる。3話でゆらが死んだ仲間を見捨てて投降した場面はこのような観点から解釈できる。そのらが「仲間の犠牲を無駄にして逃げ出した」と評したところのゆらの行動は、ゆらが恐怖心に打ち克てなかったことよりもむしろ、C3部のメンバーにとってゆらがさした大事な存在ではなかったのと同じように、ゆらにとってもまたC3部のメンバーが大事な存在ではなかったからなのではないか、とも思われるのである。

もっとも3話の戦闘後のシーンはそのらがゆらに対して明確に自分の意見を伝えた数少ない(殆ど唯一の)場面であり、本作を全体として観た場合にはゆらが比較的まともに(?)取り扱われた機会であったとも言える。そのらの悪辣な不作為については口を極めて批判せざるを得ないのだが、3話に限って言えばそのらはゆらと向き合う努力をしていたように感じられる。

僕らはみんな河合荘

僕らはみんな河合荘(9)』を読んだ。本当に完全に最高の漫画で、この時を迎える為に既刊全8巻を読んできたのだ思える程感動してしまった。一体河合荘9巻は如何なる点で最高だったのか、少しばかり解き解しておこうと思う。

 

まず9巻について当然指摘しなければならないことであるが、宇佐と律が無事に恋仲になったのである。これがもう私としては嬉しくて嬉しくて堪らない。宇佐と律がくっつかないのであればこの漫画は何の意味も無い。だから勿論最終的に上手く行くだろうと分かってはいたけれど、それでもずっとやきもきさせられて、あるべきゴールを待ち続けて、待ち続けて、それでようやく今報われたわけで、もう本当に、本当に感動している。末永くお幸せに!ありがとう宇佐和成!ありがとう河合律!

 

と、このように関係成就それ自体が本当に目出度いことなのだけれど、顧みるに関係成就に至る過程もまた本当に素晴らしかったと気付かされた。これは本筋の構造と関連するので、以下少し詳しく述べる。なお私は9巻発売後まだ8巻しか読み返しておらず、7巻以前の流れについては十分な記憶を有さないが、私は河合荘シリーズの大きな長所として何処から読んでも面白く読める点を推しており、また時間の都合もあり、8巻と9巻の展開を主に扱う。

 

まず前提として、河合荘シリーズの本筋部分(宇佐と律の関係)については、その関係が成就に至るまで解決すべき問題は以下の4点であった。

①宇佐が律の宇佐に対する恋心を芽生えさせること

②律が自分の恋心を自覚すること

③律が宇佐の律に対する恋心を意識すること

④②と③を前提にして律が宇佐に応えること

 

これらの問題を巡って話がどのように展開したか、である。私の解釈では、少なくとも8巻までは、③は②に決して先行しなかった。②と③の要素は相互に何らの影響を及ぼさないし、それが故に双方の恋心は、煽り煽られ好き好かれ、気持ちが先走って恋愛感情が増幅していくという方向には行かなかった。ここがまず重要なポイントである。宇佐と律の関係は確かに深まっていく。でもゴールに至ることはできない。律の、律自身の心に対する理解が足りないのである。

さて、それが故にこの作品は、③なくして①を生じさせるという作業を極めて丁寧に行っていた…はずである。恐らく7巻まではそう位置付けて差支えないのだろうと思っている。しかしながら①は、実際には非常に長い間次のような形に曲げられた。つまり、

①' 宇佐が律の宇佐に対する友情を芽生えさせること

宇佐の行動が律に①'として受容されることが関係成就までの道のりを長引かせた。実際①が①'に解釈されるのは明らかに律の思考回路の異常性故である。

それでも、少しずつ少しずつ、とりわけ8巻辺りから律は違和感を感じ始めるのである。かくして徐々に②の段階へ移行する。②とは即ち①'としてなされたことを①として再解釈する律の営みである。宇佐と律の関係は、宇佐がどれだけ努力して①を積み上げているつもりでも、律が①'と解し続ける以上は、律が関係の再解釈を行わなければ決して進展しない。徹頭徹尾宇佐と律の関係の行く末は、律自身の内面の再解釈如何に委ねられる。

そしてまさに9巻において、律は明らかに②の段階に移行し、今まで①'として精緻に頑強に積み重ねた関係は、①として、全く別次元の意味で再解釈される。そして、②の段階を経た上でようやく、換言すれば律自身の内面解釈の革新的変更を経た上でようやく、律は、③の段階に差し掛かる。しかし、律の内面に起きた革命は、宇佐の自分自身に対する想いを容易に再解釈し(律の言葉を借りれば「今までいろんな所に張られてた伏線がバーッと繋がって」)、難なく③の段階をもクリアするのである。

そして、④に至った河合律の一途さと言ったら…!到底言葉で言い表せない。

 

一歩ずつ、慎重に、誠実に、確実に関係を積み上げてきた宇佐は賞賛に値する。

河合律の孤独で内向きな思考の迷宮が満を持して革命を起こし、宇佐との関係の解釈を一変させた鮮烈さは驚嘆に値する。

 

そして、その二人が遂に恋心を通わせたという事実は、決して掛け替えがない。

小林さんちのメイドラゴン-9

小林さんちのメイドラゴン最終話を視聴した。この最終話は、演出等素晴らしい出来ではあったものの、どうしても消化しきれない論点を抱えたと思われる。如何なる点で、どのように未解決の論点が表出したかについて、簡単に指摘しておく。

 

終焉帝がトールを元の世界に連れ戻しにきた理由は、将来起こり得る悲劇故に、トールが傷付くのを未然に防ぐためである。その悲劇とはすなわち小林の死であり、人間とドラゴンの、価値観の相違以前の根源的差異に由来する。

トールは、今ここにいる瞬間を愛するが故に、終焉帝の迎えを拒絶する。この対立は、未来を志向する終焉帝と現在を志向するトールの価値観の完全な断絶によるものである。そ終焉帝の言い分は上述の通り堅固な論拠に基づくものであり、他方トールの言い分も今現在を日々積み重ねて信頼を積み上げることに基づく頑強なものである。

双方の言い分を止揚することは極めて困難である。少なくとも1クールのアニメの最終盤のみを用いて解決を与えうる問題ではない。逃げの一手、先延ばしの一手を打って差し当たりの妥協を図るほかない。

そこで、小林が如何なる論理で最終的に終焉帝を退けたかが問題になる。小林の主張は次の通りである。すなわち、現在小林とトールの関係は上手くいっており、かつその関係が将来にわたっても継続すると相互に信頼しているのだから、問題は親子の信頼関係に帰着するのであり、終焉帝はトールを信頼すべきである、と。これをどう評価すべきか。

換言すれば、小林とトールの現状を述べた上で、トールへの信頼を担保にして解決を先延ばしにせよと言っているわけである。これまで縷々述べた終焉帝の主張する問題の指摘に対する応答は全くの零であるし、先延ばしにすべき理由として暗に採用されている論拠はトールの自己決定の尊重であるが、それとても現在を志向する価値観に由来するものであり、何故今現に生じている価値観の相克を先延ばしにすべきなのか、それが許されるのか、終焉帝とトールが先に議論したところから一歩も進んでいない。つまり、終焉帝がトールを信頼すべきか否かと問題を先延ばしにすべきか否かが全く噛み合わないのである。この点が私が本作に抱いた最大の不満点である。

 

しかしながら、本作の魅力は今ここにあることの価値を肯定するという主張それ自体にあるようにも思う。そうすると、主張に対して更に反論を予想して再反論を繰り広げることは、そもそも本作の射程が及ばない事柄であると考えられる。現にそのような観点から最終回を評価し直せば、全編通して小林とトールの積み上げてきた関係が如何に尊いかがありありと窺える演出が施されていたとも言える。

本作が価値観の相克の解決乃至すり合わせから軸足を移して、今ここにあることの価値を肯定するという主張ベースの作品になりつつあることは、とりわけ8話頃から明らかであったように考えている。そして、別の価値観との対立を措けば、本作の主張は小林とトールの関係があまりに魅力的に描かれていたことからしても十二分に説得力あるものであったように思う。本作は、その射程を十分意識する必要はあれど、本当に素晴らしい出来のアニメだった。