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蝋板に鉄筆で

自由帳

僕らはみんな河合荘

僕らはみんな河合荘(9)』を読んだ。本当に完全に最高の漫画で、この時を迎える為に既刊全8巻を読んできたのだ思える程感動してしまった。一体河合荘9巻は如何なる点で最高だったのか、少しばかり解き解しておこうと思う。

 

まず9巻について当然指摘しなければならないことであるが、宇佐と律が無事に恋仲になったのである。これがもう私としては嬉しくて嬉しくて堪らない。宇佐と律がくっつかないのであればこの漫画は何の意味も無い。だから勿論最終的に上手く行くだろうと分かってはいたけれど、それでもずっとやきもきさせられて、あるべきゴールを待ち続けて、待ち続けて、それでようやく今報われたわけで、もう本当に、本当に感動している。末永くお幸せに!ありがとう宇佐和成!ありがとう河合律!

 

と、このように関係成就それ自体が本当に目出度いことなのだけれど、顧みるに関係成就に至る過程もまた本当に素晴らしかったと気付かされた。これは本筋の構造と関連するので、以下少し詳しく述べる。なお私は9巻発売後まだ8巻しか読み返しておらず、7巻以前の流れについては十分な記憶を有さないが、私は河合荘シリーズの大きな長所として何処から読んでも面白く読める点を推しており、また時間の都合もあり、8巻と9巻の展開を主に扱う。

 

まず前提として、河合荘シリーズの本筋部分(宇佐と律の関係)については、その関係が成就に至るまで解決すべき問題は以下の4点であった。

①宇佐が律の宇佐に対する恋心を芽生えさせること

②律が自分の恋心を自覚すること

③律が宇佐の律に対する恋心を意識すること

④②と③を前提にして律が宇佐に応えること

 

これらの問題を巡って話がどのように展開したか、である。私の解釈では、少なくとも8巻までは、③は②に決して先行しなかった。②と③の要素は相互に何らの影響を及ぼさないし、それが故に双方の恋心は、煽り煽られ好き好かれ、気持ちが先走って恋愛感情が増幅していくという方向には行かなかった。ここがまず重要なポイントである。宇佐と律の関係は確かに深まっていく。でもゴールに至ることはできない。律の、律自身の心に対する理解が足りないのである。

さて、それが故にこの作品は、③なくして①を生じさせるという作業を極めて丁寧に行っていた…はずである。恐らく7巻まではそう位置付けて差支えないのだろうと思っている。しかしながら①は、実際には非常に長い間次のような形に曲げられた。つまり、

①' 宇佐が律の宇佐に対する友情を芽生えさせること

宇佐の行動が律に①'として受容されることが関係成就までの道のりを長引かせた。実際①が①'に解釈されるのは明らかに律の思考回路の異常性故である。

それでも、少しずつ少しずつ、とりわけ8巻辺りから律は違和感を感じ始めるのである。かくして徐々に②の段階へ移行する。②とは即ち①'としてなされたことを①として再解釈する律の営みである。宇佐と律の関係は、宇佐がどれだけ努力して①を積み上げているつもりでも、律が①'と解し続ける以上は、律が関係の再解釈を行わなければ決して進展しない。徹頭徹尾宇佐と律の関係の行く末は、律自身の内面の再解釈如何に委ねられる。

そしてまさに9巻において、律は明らかに②の段階に移行し、今まで①'として精緻に頑強に積み重ねた関係は、①として、全く別次元の意味で再解釈される。そして、②の段階を経た上でようやく、換言すれば律自身の内面解釈の革新的変更を経た上でようやく、律は、③の段階に差し掛かる。しかし、律の内面に起きた革命は、宇佐の自分自身に対する想いを容易に再解釈し(律の言葉を借りれば「今までいろんな所に張られてた伏線がバーッと繋がって」)、難なく③の段階をもクリアするのである。

そして、④に至った河合律の一途さと言ったら…!到底言葉で言い表せない。

 

一歩ずつ、慎重に、誠実に、確実に関係を積み上げてきた宇佐は賞賛に値する。

河合律の孤独で内向きな思考の迷宮が満を持して革命を起こし、宇佐との関係の解釈を一変させた鮮烈さは驚嘆に値する。

 

そして、その二人が遂に恋心を通わせたという事実は、決して掛け替えがない。

小林さんちのメイドラゴン-9

小林さんちのメイドラゴン最終話を視聴した。この最終話は、演出等素晴らしい出来ではあったものの、どうしても消化しきれない論点を抱えたと思われる。如何なる点で、どのように未解決の論点が表出したかについて、簡単に指摘しておく。

 

終焉帝がトールを元の世界に連れ戻しにきた理由は、将来起こり得る悲劇故に、トールが傷付くのを未然に防ぐためである。その悲劇とはすなわち小林の死であり、人間とドラゴンの、価値観の相違以前の根源的差異に由来する。

トールは、今ここにいる瞬間を愛するが故に、終焉帝の迎えを拒絶する。この対立は、未来を志向する終焉帝と現在を志向するトールの価値観の完全な断絶によるものである。そ終焉帝の言い分は上述の通り堅固な論拠に基づくものであり、他方トールの言い分も今現在を日々積み重ねて信頼を積み上げることに基づく頑強なものである。

双方の言い分を止揚することは極めて困難である。少なくとも1クールのアニメの最終盤のみを用いて解決を与えうる問題ではない。逃げの一手、先延ばしの一手を打って差し当たりの妥協を図るほかない。

そこで、小林が如何なる論理で最終的に終焉帝を退けたかが問題になる。小林の主張は次の通りである。すなわち、現在小林とトールの関係は上手くいっており、かつその関係が将来にわたっても継続すると相互に信頼しているのだから、問題は親子の信頼関係に帰着するのであり、終焉帝はトールを信頼すべきである、と。これをどう評価すべきか。

換言すれば、小林とトールの現状を述べた上で、トールへの信頼を担保にして解決を先延ばしにせよと言っているわけである。これまで縷々述べた終焉帝の主張する問題の指摘に対する応答は全くの零であるし、先延ばしにすべき理由として暗に採用されている論拠はトールの自己決定の尊重であるが、それとても現在を志向する価値観に由来するものであり、何故今現に生じている価値観の相克を先延ばしにすべきなのか、それが許されるのか、終焉帝とトールが先に議論したところから一歩も進んでいない。つまり、終焉帝がトールを信頼すべきか否かと問題を先延ばしにすべきか否かが全く噛み合わないのである。この点が私が本作に抱いた最大の不満点である。

 

しかしながら、本作の魅力は今ここにあることの価値を肯定するという主張それ自体にあるようにも思う。そうすると、主張に対して更に反論を予想して再反論を繰り広げることは、そもそも本作の射程が及ばない事柄であると考えられる。現にそのような観点から最終回を評価し直せば、全編通して小林とトールの積み上げてきた関係が如何に尊いかがありありと窺える演出が施されていたとも言える。

本作が価値観の相克の解決乃至すり合わせから軸足を移して、今ここにあることの価値を肯定するという主張ベースの作品になりつつあることは、とりわけ8話頃から明らかであったように考えている。そして、別の価値観との対立を措けば、本作の主張は小林とトールの関係があまりに魅力的に描かれていたことからしても十二分に説得力あるものであったように思う。本作は、その射程を十分意識する必要はあれど、本当に素晴らしい出来のアニメだった。

小林さんちのメイドラゴン-8

8話は小林とトールの関係が今如何なる位置にあるのかが再度問われる回である。ここでは関係に何らかのレッテルを貼ることは必ずしも重要視されず、複層的で不確定な関係が描かれる。その中で、とりわけ8話終盤における、トールの小林に対する嫉妬を描いたシーンは出色の出来であると感じ、かつ原作に重大な改変が加えられそれが大いに成功しているという点で非常に注目に値すると考えるので、これについて言及する。

 

8話終盤のシーンを原作と比較すると、小林の「友達はいたけど、親友「が」いなかった」というセリフが、「友達はいたけど、親友「は」いなかった」と改変されていること、②小林の「気恥ずかしい歳でもないんだけどねー」というセリフが省略されていること、③やり取りの後に小林がトールに説教をするシーンが省略されていることに気が付く。このうち圧倒的に重要なのは①であると考える。②は①との関係で説明される。③は本シーンの持ち味を殺さないために敢えて省略されているのだと考える。

 

①についてより詳しく検討する。原作の表現は、「親友がいないこと」を小林が問題としていることになり、小林がトールの頭を撫でるシーンは、②の台詞と相俟って、小林がトールのことをを親友ないし親友類似の存在だと考えている、というように解釈できる。

これに対して改変後のアニメ版の表現では、「親友はいない」と助詞を変更することにより、親友がいないということそれ自体は今重要な問題ではないと示唆することに成功している。そして、親友がいないということが何故問題にならないのかと言えば、今トールがそばにいるからである。トールとの関係を何と呼べばいいのか。必ずしも親友と呼ぶ必要はないのである。8話Aパートで小林が「トールはメイドだけど、友達でもいい」と言ったけれども、友達だと、親友だと言い切ってしまう必要はない。トールはそれよりも遥かに大切な存在だと小林は思っている。このように解釈することが可能ではないか。

 

小林さんちのメイドラゴンの制作陣には言語感覚の鋭いスタッフがいるのだろうと思われる。極めて丁寧な作りであると感じられ、観る側は本当に心地良い。

小林さんちのメイドラゴン-7

細かい論点だが、原作とアニメ版の関連について二点言及する。

 

1.

原作とアニメ版の顕著な違いの一つとして、原作にある割とド直球の下ネタパートをアニメ版ではバッサリとカットしている点にある。下ネタパートが原作にいかなる華を添えているのか、私自身読み切れていない部分もあるのだが、アニメ版メイドラゴンの看板の一つに疑似家族関係を掲げることとの関係では、これらパートをすべて省くのは適切な判断のように思われる。

 

2.

メイドラゴンの原作には、時折質的な意味におけるよりもむしろ量的に非常に重い小林乃至トールの独白パートが差し挟まれている。これは私の好みではないし、読み味を若干損なっているようにも思う。この点アニメ版は、回が進むに従ってこれらの独白パートをより適切に消化するようになっていると感じる。

独白パートの処理がやや失敗に終わっているのは4話で、小林に原作にはない余計な台詞(人間は異物を排除する傾向がある云々)を話させたことは、先にも指摘した通り些か上滑りだった感じる。恐らく小林・トール・カンナの三者による人間観の分配という意義があったのではあろうが。

その点7話の海回は、原作上の独白を小林とトールの会話に織り交ぜながら処理することで、不自然に話の流れが寸断されることなく、小林が何を考えているか、そのように考えた上でトールとどのように接しているか、トールがそれにどう応えるかというコミュニケーションに解消されているように思われ、非常に好感を持てた。

小林さんちのメイドラゴン-6

小林さんちのメイドラゴンの原作に一通り目を通したので、アニメ化の成否について10話放映終了時点での見解を述べておきたい。先に結論を言えば、アニメ版の小林さんちのメイドラゴンには、原作と独立した価値を見出し得ると考えている。

 

 アニメ版が原作と一線を画し、それによって独自の価値を生み出し得ている最大の理由は、小林・トール・カンナの疑似家族関係を前面に押し出した作品作りをしている点にあるように思われる。ここで描かれる関係においては、小林がどちらかといえば父親役、トールが母親役、カンナが娘役を演じているように見える。

しかし、それにもまして重要なのは、この関係があくまで「疑似」家族であって本当の家族ではないことに十分考慮が及んでいることである。その配慮は二つの方向に現れている。一つは小林とトールの関係であり、家族とも主従とも、恋人とも姉妹とも友達とも確定し切れない微妙で複層的な感情の揺らぎが緻密に描かれている。この観点から言えば8話が最も重要であろう。そしてもう一つは小林とカンナの関係であり、ここではむしろ小林が逆にカンナとの疑似家族関係を重視して、カンナの保護者として振る舞う姿が描かれている。9話において、小林がカンナの運動会に「行きたい」のではなく「行くべきだ」と考えたのはこのような観点から理解される。

 

そして、いまアニメ版小林さんちのメイドラゴンは、上述の疑似家族関係とその諸相を描くことを主要な骨格にしつつも、人間とドラゴンの本質的な価値観の相違からくる葛藤という、原作で重視されていると私が考えるところのテーマからは軸足を離しつつあるように思う。8話乃至10話においては、対立や葛藤よりもむしろ、人間界に馴染みつつあるドラゴンが、各々の個性を人間界の制約のもとで発揮することの面白味を描く段階に入っているよう感じている。

小林さんちのメイドラゴン-5

9話放映時点での8話に対する見解を記す。

 

私の知る限り、アニメ版のメイドラゴンは小林・トール・カンナの関係性を家族愛に寄せて描いているという見解があるところ、これには賛成できる。例えば2話でこそカンナが小林の家に乗り込んだときにトールはカンナにやきもちを焼いていた(?)ようにも見えるが、それ以降トールはカンナのことを妹ないし娘として愛しているように見える。またカンナが小林に抱きつくなどして甘えても、トールはそれに嫉妬するよりはむしろ微笑ましそうに二人を眺めているように思える。これ以上具体的な検討を待つまでもなく、家族愛の描写にひとつの重点が置かれていることに異論はないだろう。

 

そしてそうであるからこそ、8話で小林とトールの関係に、家族関係という問題を脇に置いたうえで再び焦点が合わせられたのは意義深いということになる。ここでは8話ラストの小林が少し背伸びしてトールの頭を撫でるシーンに、小林なりの精一杯さ、愛情の深さが感じられて本当に尊いということをまずは述べておきたい。友達、親友、姉妹、恋人、主人とメイドなど、関係性を表す既知の語彙のいずれも恐らく直ちには当てはまり得ない特別な関係をここに見出すことができる。

君の名は。-2

私は「君の名は。」に関する巷の見解を見ても意図的に全てスルーしているのだけれど、それでも幾つかの見解が記憶に残っているので、これを紹介した上で若干のコメントを加える。

 

1.

以前女子高生か何かの二人組が喫茶店で、「『君の名は。』を見たが、内容を全て忘れた」と述べていた。

本質的な視聴姿勢である。作品の趣旨に合致している。その場でエモーショナルな気分になり、あとは特に言及しない、良い映画なのかそうでもなかったのかよく分からない、そもそも何も覚えていない、まぁいいや。「君の名は。」に一家言ある諸氏が百家争鳴の中、実に潔く、尊敬に値する。

 

2.

友人が次のようなことを言っていた。曰く、「ショートカットの三葉が映る画面がとても快適だった」と。また曰く、「インターネット上で三葉のショートカットに触れる意見をとんと見掛けない」と。

私も三葉は髪を切った後のほうが可愛いと思っているのだが、それは色々な好みの問題としてさて置き、本作に出演する女の子の可愛さに言及する人々の数が極端に少ないのは彼の指摘の通りと思われる。何故だろうか。背景の描き込みと熟慮された主題歌とそれらが相俟って形成された雰囲気に幻惑されてしまうからだろうか。それとも脚本の粗が目立つからだろうか。

私は何度も強調している通り、「君の名は。」のストーリーに観るべき点、評論すべき点は特に無いと考えている。それを前提に視聴して、どれだけ快適な気分になれるかが視聴者の本領を発揮すべきポイントである。その意味で、「ああ、田中将賀御大のショートカット女子が画面いっぱいに映っている、快適だ」という体の視聴姿勢は実に適切であると言わざるをえない。