灼熱の卓球娘-4

ざくろのくるりに対する感情の変化は大方検討したところだが、くるりのざくろに対する感情はどうか。管見の限り、この点については既に優れた検討が存在するため、私が敢えて付け加えることはないのだが、要点をまとめておきたい。

 

くるりは自分の卓球に対する姿勢に関して確かにざくろという賛同者を得たわけだけれど、心の何処かで部を崩壊させてしまったことに対するざくろへの負い目があったに相違ない。そうでなければ二年からざくろに部長を任せず、自分が正しいと思うやり方でもう一度後輩を指導したことだろう。

そこでくるりは、ざくろを部長に推挙して、ざくろにもず山を全国へと導かせることを「自己満足」と評し、自身はざくろの為に勝利を献上することへと徹したのである。そこではくるりは自身の存在意義を勝利に求めるより他なかった。

結論だけ言えば、くるりはそのように自分を追い詰める必要が全く無かった。ざくろと過ごした時間の中にこそ彼女の本当の存在意義があったのだから。

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最近巷では「けものフレンズ」というアニメが流行っているけれど、私はこれを視聴していない。あるアニメを視聴していないからといって直ちにそのアニメに対する言及をすることができないとまでは言えないけれど、私は当該アニメの台詞や表現を十分意識し時には引用して論じた見解のほうが優れていると思うので、やはり本体にコメントするのは避けておきたい。

それはそうと、けものフレンズの流行は大したものである。全く偏った見方であることを覚悟していうと、何らかの創作を嗜む人々の受けが良いように感じる。設定なり小道具なり世界観なり、きっと魂をくすぐる何かがあるのだろう。私は一話をちらちらと見ただけで、特に何も感じることなく脱落してしまったので、多分向いていないのだろう。

向いていないといえば、ガールズ&パンツァーという作品があって、私はかなり頑張ってシリーズすべて視聴したものであったが、どうも全体としてはこれといって面白いという印象を受けなかった。けれども世の中では、というか創作を嗜む人々の界隈では相当に流行っていた印象を受けるし、これまた二次創作が盛んなジャンルと言って差支えないだろう。

 

創作と解釈の間には多分明らかな切れ目がない。与えられた設定なり世界観なりを整合性あるよう配列する行為は少なくとも解釈だろうと勝手に私は解釈しているけれど、設定の欠缺を補う行為はもしかしたら創作なのかもしれないし、単に設定や世界観を秩序付ける行為にすら私達の願望や妄想は入り込み得るだろう。従って創作と解釈をぱっきり切り分けてみる試みはどうも成功しなさそうだ。

 

とはいえ、私の自己認識の上では、私は創作にわたる活動を過去一度もやったことがない。自分の中に表現したいと思える何物も持たないからである。そうである以上は、与えられた素材から確実にここまでは言えるだろうと思える範囲において物を言おうと努めるだけであり、逆にその境界線を踏み越えて何か新しい世界を作ってみようとは今の所一切全然思わないのである。

けいおん!-2

以前けいおん!1期は完全な作品であるという主張をしたが、それは誤りではないけれどもここで言葉を尽くして明らかにしたい事柄ではないと気がついた。むしろ、けいおん!は1期2期を通じて常に最善の作品であるということを申し上げたいのである。

 

けいおん!が最善の作品であるとはどういうことか。それは、けいおん!の登場人物、彼女達の人間関係、軽音部の活動内容の全てが善良であり、従って希望に満ち溢れているということである。

およそ人間というものは単体でも悪であり、三人集まれば最悪、五人集まれば完全に破滅だというのが通説的見解と思われるが、けいおん!シリーズで描かれる人間及びその活動はいかなる意味においても善である。あまりにも善でありすぎるから、到底私達の人間生活では有り得ない事象が描かれているように思われる。けいおん!における善は極めて特殊な複数の条件が揃ったうえで奇跡的に生じ得たものである。

そうであるとするならば、如何なる条件が善を可能ならしめているのか追求すべきことは当然である。けいおん!第一の魅力である。

灼熱の卓球娘-3

1.

大要、ざくろがくるりに求めていたのは、「くるりの卓球の強さ」ではなくて「くるりくるりであること」であり、この無償の愛がくるりを救ったという見解を目にした。これに対して私は、ざくろがくるりに無償の愛を向けているという主張自体非常に魅力的であると感じたが、くるりがざくろに対して向ける感情は少なくとも10話開始時点においては無償の愛ではなかったし、10話終了以降もなおくるりがざくろに「ざくろがざくろであること」を求めているわけではないという点で双方向性の観点から些か難があるように思った。くるりという人格、ざくろという人格を個別に考えず、二人の関係性を軸に一体のものとして捉える観点ゆえである。

 

2.

ざくろがくるりに向けた感情の起点が強さへの憧れであっただろうことは既に述べた。しかし続けて、新入部員が皆辞めて、ざくろがくるりと二人きり取り残された、もず山冬の時代のことを考えなければならない。ざくろはどう変わったか。

練習でも真っ先にへたばってしまい、また鈍くてすぐに転んで傷だらけになってしまうざくろは、もしかしたらあまり自己肯定感の高い子ではなかったかもしれない。でも、くるりの一対一指導のもとで、くるりとずっと打ち合いを続けて、憧れのくるりに少しずつ近づいていったのである。その中で少しずつ自信を付けていったかもしれない。そして二年に上がって、くるりから部長を代わってくれるよう頼まれて、その自信がいわばくるりのお墨付きが付いた、根拠ある自信に変わったのかもしれない。そうやって、ざくろがどっしりとした大樹のように、もず山の屋台骨となって、部の皆を全国に導くことが出来たのかもしれない。私の想像力で補完できるのはこの程度である。

 

3.

くるりのことはまた後で考えるとして、灼熱の卓球娘の根本的な問題に触れておく。私は上述の如く、ざくろ、くるり両人の人格は二人の関係性を前提としてはじめて明晰に浮かび上がってくるものであり、個としての存在感は希薄であるように感じている。確かにくるりなどは奇矯な行動が目立つから、一見個性が強いように見えるかもしれないが、私はそれを人間の描写というよりはむしろ属性の付与と呼ぶべきものだと考えている。そうでないとしても、至極一面的な描写に思える。

このアニメは一対一の熱い関係を描くという点ではよく成功していると思う。個々のキャラクターの人間描写の薄さは対応するキャラクターとの関係性の描写で十二分に補われている。その上、一対一関係と一対一関係の関係、具体的にはこより・あがりとざくろ・くるりの関係同士のぶつかり合いの描写も極めて優れている。9話、10話を観れば明らかである。

しかし、特定カップリング以外の一対一関係、あるいは11話における雀が原2年生組の入浴シーンや夜会話シーンのように複数人が一堂に会する場面における多人数間人間関係の描写はさほど上手く行っていない、端的に言えば会話にあまり面白味が感じられないように思われるのである。その原因は今まで縷々述べてきたように、個々のキャラクターの描写が特定キャラクターとの関係に偏って掘り下げられており、自立した人格の描写があまり緻密に行われていないからだろうと考えている。

もっともこのような問題を抱えていたからといって、灼熱の卓球娘の価値は殆ど毀損されない。灼熱の卓球娘は特定カップリングの一対一関係を楽しむアニメーションであると割り切ればそれで足りるし、その描写はずば抜けて優れているのだから。

灼熱の卓球娘-2

卓球娘は真っ直ぐな想いをストレートに卓球でぶつけ合う熱いアニメ、と言えば多分間違ったことを言ったことにはならないのだけれど、その彼女達の真っ直ぐな想いがどうやって育まれてきたのかと考えると、カップリング単位で見ていくのが妥当らしいという結論に落ち着く。そこでざっと見渡すに、ざくろとくるりの関係性について立ち入った言及を行わないのでは卓球娘について話したことにならないと思ったので、彼女達の関係を検討する。

 

二人の関係のはじまりに遡ると、ざくろのくるりに対する憧れが根源に見出される。ここで目を惹くのは、その憧れがただ見ているだけのそれではなくて、自分もそうなりたい、全国で勝ちたいという意味で「本物」であるということである。それは退部した部員の「新入生に負けて先輩の面子丸潰れ」だの「わたしは面白おかしく全国に行きたかっただけだから」だのと言った台詞との対比でより明らかになる。ざくろはそのようなことは意に介さないのである。躓いてもへたばってもくるりに喰らいついて、くるりとの練習に付いて行く。その本物の気持ちがくるりに届くというわけである。

 

ざくろからくるりに対する気持ちのうちはじまりの部分を反芻した段階で最高の気分になり、先を書けなくなってしまった。

灼熱の卓球娘

積んでいた灼熱の卓球娘を鑑賞し、本当にいい気分になったのでその感想を記す。

 

このアニメは、キャラクター各人の個性自体はさほど巧妙に描かれている感じはしない。決めゼリフや決め技などで割合大雑把な味付けがなされているように思った。

でも、その薄いキャラを補う、幾つかのカップリングの関係性の表現が本当に良い!最小限のエピソードで最大限の効果を上げている。キルカとムネムネの入部時の決意とか、ざくろとくるりの部活動の部活動の経歴とか、大して尺も使っていないのに各々のカップリングの絆の強さが非常に説得的に伝わってくる。何故説得的なのか、実はよく分かっていないのだけれど、恐らくは強い絆の結び目の部分―全国で勝ちたい、強くなりたい、ドキドキしたい、ざくろの笑顔を見たい―という、最重要の部分をストレートに単純な言葉と熱い作画で表現してくれていることが、観る側の快感に繋がっているのだろうと思っている。

で、全体を通して特筆すべき名エピソードはやはり9話、10話だろうと思う。こよりとあがり、ざくろとくるりの関係性をそれぞれ描くだけでなく、その関係性をぶつけ合う描写に心打たれた!互いが情熱を一打一打に込めて死力を尽くし合うド直球の脚本、ナイス!ベリーナイスです!

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日に日に記事を更新するのが苦痛になってきて、昨日いよいよその閾値を超えたので毎日更新を断念したのだけれど、それは何故なのか考えてみると、書きたくもないようなことを書かざるを得ない袋小路に自ら嵌り込んでしまったからだと悟った。

 

あるコンテンツを好きだと思うにせよ嫌いだと思うにせよ、あるコンテンツに対して自分なりに何らかの解釈を施して、その解釈から得られる観念が自分の中に色々な感情をもたらすのだと考えていた。しかし、この考えは誤りなんだと今では思う。コンテンツはもっと直接私に語り掛けてきている。あれこれ頭を捻って解釈を考えるより先に頭の中にイメージが形成されて、好悪の感情が生まれる。解釈は感じたことを後から振り返って理由付けするツールにはなるけれど、コンテンツを受容する過程で受けた強い印象、感覚、衝撃を伝えるのには必ずしも、あるいは全く役に立たない。それこそが今ここで語りたいことだというのに!

結局のところ、どうでもいい事柄を書くのに使う時間は苦痛そのものだし、誰かに求められて書いているわけでもなし、コンテンツの解釈を示すという方向でものを書くのは取り止めて、今後はあるコンテンツが好きだ/嫌いだ、それは何故なのか、いかなる要素がそのような印象を与えたのか、という観点から色々と書いていきたい。これもまたイメージを字数の制約なしに言語化するという所期の目的に即するところだろう。