蝋板に鉄筆で

自由帳

君の名は。

私は「君の名は。」を良い映画だと考えている。そこでそのように考えるに至った背景について、本作の大雑把な解釈を交えながら述べたいと思う。

 

本作はしばしば恋愛映画だと称されているように私の目には映るが、私はそのようには考えておらず、むしろ未完成の自意識への気付きと統合を描いた作品だと捉えている。瀧と三葉は人格を分有しており、二人は出会いと別れを経て片一方では未だ不完全な自己の人格に直面する。自己の半身を探す過程は本作で特に描かれてはいないが、最終的に二人は再び出会い、自意識が完成する。

 

ここまで書いてみて、だからどうした、それが何だという気分になってきた。そもそも私は本作の意義に興味がないし、と言うか特段深い考察を要すべき意義自体が存在しないと考えていたのだった。そうであるからこそ私はのびのびと気楽に綺麗な背景と素晴らしいキャラクターデザインを楽しめたし、作中随所に散りばめられていたように思われる問題も全部彗星が吹き飛ばしてくれるので考察する必要もなく、視聴から二時間で完全にスッキリ爽快な気分になって映画館を後にできたということになるわけである。

多くの批判が寄せられているように思われるエンディングについても、まあ後ろ三分をカットして具体的な再会シーンを描くことなくそれを示唆するに留めたとしても十分ハッピーエンドであることが伝わったようにも思うが、分かり易さを重視したというのならそれはそれでいいような気もするし、そんな細かいことはどうでもいいのではないか、という感想だけがある。彗星が全ての問題を破壊した時点で私は本作が一切の思考を要求していないのだと解釈したし、そのように観れば実に快適な映画だったという気分以外何も残すことなく脳内の雑念と一緒に綺麗さっぱり忘れることができるのである。

2-5

この世界の片隅に」に言及する。私は三つの理由からこの映画をあまり気に入っていない。すなわち、

1.「戦争の間も変わらず営まれてきた日常がある」という主張に面白みを感じない

2.日常の精緻な描写に関心が持てない

3.のんの演技が聞き苦しい

 

この三つの理由が大体1:1:98くらいの重み付けで私の中での評価を決している。しかしながら3の見解については、すずはのんのハマり役であって他のどの声優が演じてもこれ程共感を呼び起こしはしなかっただろうといった全く相反する見解が多数見られるところであり、またそれに特段の異論を差し挟もうという気力も無い。私は幼少期のすずとの演じ分けが出来ていない時点で完全に無理になってこの映画への評価がストップ安となり、120分以上にわたってのんの演技を聴くのが苦痛ですらあったのだが、それは個人の好みの問題であり、他人がそうでないからといって私がどうこういうことではないだろう。

そこで、私の本作に対する評価との関係では殆ど重要ではないのだが、上記の見解のうち1及び2に限って若干のコメントを述べる。

 

1に述べた本作の主張(だと私が思ったもの)については、それはそうですね、という感想しか持てなかった。妥当な主張だし、そのような観点から戦争を観ることに意義を見出す人もいるだろうとは思うが、私とは特に関係のない主張だとも感じ、終わってしまった。

2は私にとってより重要である。2の見解を換言すれば、日常を日常として描くことは日常を題材にしたアニメの前提であり、その日常が尊くかけがえのないものであることこそが日常アニメの良さを最終的に決定するのだ、という私の常日頃抱いている見解からすれば、本作は日常の描写に固執するあまり日常の尊さを十分伝え得る作品ではなくなってしまった、ということになる。

もっともこのような感想が妥当なものの見方か振り返ってみると疑問ではある。本作の登場人物にとっては、戦争をも織り込んだこの日常こそが全てであり、その彼女達にとっての全てを強烈なリアリティを以って描いた本作は、まさにそのリアリティ故に圧倒的な存在感を以って私達に語り掛けて来るのである、などとも評しうるからである。

 

しかしそうであるからと言って、私がそれに耳を傾けることができたかどうかというのは別問題である。私はのんの演技が耳に合わずに作品全体に対して耳を閉ざしてしまい、そこで終わってしまったのである。

小林さんちのメイドラゴン-4

7話時点で本作に対して言い得ることを述べる。

 

1.

ファフニールやルコアはトールの保護者的な位置に付いて話を回していくのだと4話時点では考えていたが、そうではなく、各々人間に何らかの関心を持ち、従前の人間観に修正を加えていくことになるようだった。小林とトール間の関係とパラレルに、異形のドラゴンが人間界で生きることの意義を多角的に描写することに繋がるだろう。

 

2.

非常に早い段階から示唆されていたとは思うが、本作は過去の確執や未来への不安は全て抜きにして、今この瞬間に、ドラゴンと人間が互いに異なる価値観を持ったままで共に生きていることに焦点が当てられ、それが如何に尊いかを強く表現していると感じる。かつ、その主張の当否は問題とならず、如何に説得的にそう主張できるかで勝負しているようだ。

5話のスプーン曲げのくだりで、トールが「分かってます…分かってますよ」と言うシーンで小林がトールに伸ばして、でも届かない手とか、7話のトールの背中に乗る小林とトールとの会話で小林が感じた悲しさとか重さとか、どうしたって価値観を共有できないことは色々な場面で示唆される。それでも、互いになにかしら愛着を持って一緒に過ごしている。

相手の寿命が先に尽きるかもしれない?そんなことは今この瞬間問題にはならない。トールのように一緒に居たいと思える人間と一緒に居て、あるいはファフニールのように心地良い距離感の人間と面白いと思ったことにのめり込んで、それで十分幸せなのである。

 

繰り返すように、この主張の当否はこの作品内では問われないだろう。この主張に全く相反する帰結をもたらす主張を説得的に為す作品が対置されたうえではじめて、この作品の真価が問われるかもしれない。

けいおん!-3

けいおん!から私が抽出した日常系アニメの要件についてごく簡単な素描を行う。ここではけいおん!に関する具体的な言及は行われない。

 

優れた日常系アニメは、次の二つの要件を満たすと考える。すなわち、

1.日常が描かれていること

2.1で描かれる日常がかけがえのないものであること

 

1.

日常が描かれているとはどういうことなのか、考えてみるとよく分からない。よく分からないのにそれを日常系アニメの要件として挙げているのはどうなのか、ということになるが、それはそもそも日常系アニメという呼び方に内在する問題だろう。もしかすると、非日常でないこと、非日常的要素が極力排除された描写がされていることが日常を描いていることと言えるのかもしれない。

いずれにせよ、そこで描かれる要素はありふれたものでなければならない。奇矯な人物が異様な掛け合い漫才を為すアニメはコメディでは有り得ても日常系アニメではないだろう。異常は日常になじまない。人物と状況が十分現実的であり、描写が私達の想像力の外側に踏み出さない程度に抑えられていることが必要なのだろうと思う。

 

2.

とにもかくにもこうして何らかの意味における日常が描かれたとしても、その日常に特別の意味がないのでなければ描かれる意味がない。かけがえのない日常とは誰にとってか、またどの時点においてか。

私達がアニメを観た後で改めて自らの日常を振り返って、それがかけがえのないものだと気付くことがあるかもしれない。しかしそのことと、描かれた日常それ自体が価値あるものだということとの間にはまだ距離がありそうである。描かれた日常の価値が問題である。しかも、その日常を営む者がその日常に価値を感じることが必要である。私達の日常の価値を私達が決める如く、作中の日常の価値は作中人物がこれを決するのである。

その価値はいつ決せられるか。日常を営む中でふとした瞬間にその価値を見出すもよし、後から振り返って積み重ねられた日常の輝きに気付くもよし、とにかく作中人物がこれを見出すことが最重要である。

灼熱の卓球娘-4

ざくろのくるりに対する感情の変化は大方検討したところだが、くるりのざくろに対する感情はどうか。管見の限り、この点については既に優れた検討が存在するため、私が敢えて付け加えることはないのだが、要点をまとめておきたい。

 

くるりは自分の卓球に対する姿勢に関して確かにざくろという賛同者を得たわけだけれど、心の何処かで部を崩壊させてしまったことに対するざくろへの負い目があったに相違ない。そうでなければ二年からざくろに部長を任せず、自分が正しいと思うやり方でもう一度後輩を指導したことだろう。

そこでくるりは、ざくろを部長に推挙して、ざくろにもず山を全国へと導かせることを「自己満足」と評し、自身はざくろの為に勝利を献上することへと徹したのである。そこではくるりは自身の存在意義を勝利に求めるより他なかった。

結論だけ言えば、くるりはそのように自分を追い詰める必要が全く無かった。ざくろと過ごした時間の中にこそ彼女の本当の存在意義があったのだから。

1-8

最近巷では「けものフレンズ」というアニメが流行っているけれど、私はこれを視聴していない。あるアニメを視聴していないからといって直ちにそのアニメに対する言及をすることができないとまでは言えないけれど、私は当該アニメの台詞や表現を十分意識し時には引用して論じた見解のほうが優れていると思うので、やはり本体にコメントするのは避けておきたい。

それはそうと、けものフレンズの流行は大したものである。全く偏った見方であることを覚悟していうと、何らかの創作を嗜む人々の受けが良いように感じる。設定なり小道具なり世界観なり、きっと魂をくすぐる何かがあるのだろう。私は一話をちらちらと見ただけで、特に何も感じることなく脱落してしまったので、多分向いていないのだろう。

向いていないといえば、ガールズ&パンツァーという作品があって、私はかなり頑張ってシリーズすべて視聴したものであったが、どうも全体としてはこれといって面白いという印象を受けなかった。けれども世の中では、というか創作を嗜む人々の界隈では相当に流行っていた印象を受けるし、これまた二次創作が盛んなジャンルと言って差支えないだろう。

 

創作と解釈の間には多分明らかな切れ目がない。与えられた設定なり世界観なりを整合性あるよう配列する行為は少なくとも解釈だろうと勝手に私は解釈しているけれど、設定の欠缺を補う行為はもしかしたら創作なのかもしれないし、単に設定や世界観を秩序付ける行為にすら私達の願望や妄想は入り込み得るだろう。従って創作と解釈をぱっきり切り分けてみる試みはどうも成功しなさそうだ。

 

とはいえ、私の自己認識の上では、私は創作にわたる活動を過去一度もやったことがない。自分の中に表現したいと思える何物も持たないからである。そうである以上は、与えられた素材から確実にここまでは言えるだろうと思える範囲において物を言おうと努めるだけであり、逆にその境界線を踏み越えて何か新しい世界を作ってみようとは今の所一切全然思わないのである。

けいおん!-2

以前けいおん!1期は完全な作品であるという主張をしたが、それは誤りではないけれどもここで言葉を尽くして明らかにしたい事柄ではないと気がついた。むしろ、けいおん!は1期2期を通じて常に最善の作品であるということを申し上げたいのである。

 

けいおん!が最善の作品であるとはどういうことか。それは、けいおん!の登場人物、彼女達の人間関係、軽音部の活動内容の全てが善良であり、従って希望に満ち溢れているということである。

およそ人間というものは単体でも悪であり、三人集まれば最悪、五人集まれば完全に破滅だというのが通説的見解と思われるが、けいおん!シリーズで描かれる人間及びその活動はいかなる意味においても善である。あまりにも善でありすぎるから、到底私達の人間生活では有り得ない事象が描かれているように思われる。けいおん!における善は極めて特殊な複数の条件が揃ったうえで奇跡的に生じ得たものである。

そうであるとするならば、如何なる条件が善を可能ならしめているのか追求すべきことは当然である。けいおん!第一の魅力である。