小林さんちのメイドラゴン-8

8話は小林とトールの関係が今如何なる位置にあるのかが再度問われる回である。ここでは関係に何らかのレッテルを貼ることは必ずしも重要視されず、複層的で不確定な関係が描かれる。その中で、とりわけ8話終盤における、トールの小林に対する嫉妬を描いたシーンは出色の出来であると感じ、かつ原作に重大な改変が加えられそれが大いに成功しているという点で非常に注目に値すると考えるので、これについて言及する。

 

8話終盤のシーンを原作と比較すると、小林の「友達はいたけど、親友「が」いなかった」というセリフが、「友達はいたけど、親友「は」いなかった」と改変されていること、②小林の「気恥ずかしい歳でもないんだけどねー」というセリフが省略されていること、③やり取りの後に小林がトールに説教をするシーンが省略されていることに気が付く。このうち圧倒的に重要なのは①であると考える。②は①との関係で説明される。③は本シーンの持ち味を殺さないために敢えて省略されているのだと考える。

 

①についてより詳しく検討する。原作の表現は、「親友がいないこと」を小林が問題としていることになり、小林がトールの頭を撫でるシーンは、②の台詞と相俟って、小林がトールのことをを親友ないし親友類似の存在だと考えている、というように解釈できる。

これに対して改変後のアニメ版の表現では、「親友はいない」と助詞を変更することにより、親友がいないということそれ自体は今重要な問題ではないと示唆することに成功している。そして、親友がいないということが何故問題にならないのかと言えば、今トールがそばにいるからである。トールとの関係を何と呼べばいいのか。必ずしも親友と呼ぶ必要はないのである。8話Aパートで小林が「トールはメイドだけど、友達でもいい」と言ったけれども、友達だと、親友だと言い切ってしまう必要はない。トールはそれよりも遥かに大切な存在だと小林は思っている。このように解釈することが可能ではないか。

 

小林さんちのメイドラゴンの制作陣には言語感覚の鋭いスタッフがいるのだろうと思われる。極めて丁寧な作りであると感じられ、観る側は本当に心地良い。

小林さんちのメイドラゴン-7

細かい論点だが、原作とアニメ版の関連について二点言及する。

 

1.

原作とアニメ版の顕著な違いの一つとして、原作にある割とド直球の下ネタパートをアニメ版ではバッサリとカットしている点にある。下ネタパートが原作にいかなる華を添えているのか、私自身読み切れていない部分もあるのだが、アニメ版メイドラゴンの看板の一つに疑似家族関係を掲げることとの関係では、これらパートをすべて省くのは適切な判断のように思われる。

 

2.

メイドラゴンの原作には、時折質的な意味におけるよりもむしろ量的に非常に重い小林乃至トールの独白パートが差し挟まれている。これは私の好みではないし、読み味を若干損なっているようにも思う。この点アニメ版は、回が進むに従ってこれらの独白パートをより適切に消化するようになっていると感じる。

独白パートの処理がやや失敗に終わっているのは4話で、小林に原作にはない余計な台詞(人間は異物を排除する傾向がある云々)を話させたことは、先にも指摘した通り些か上滑りだった感じる。恐らく小林・トール・カンナの三者による人間観の分配という意義があったのではあろうが。

その点7話の海回は、原作上の独白を小林とトールの会話に織り交ぜながら処理することで、不自然に話の流れが寸断されることなく、小林が何を考えているか、そのように考えた上でトールとどのように接しているか、トールがそれにどう応えるかというコミュニケーションに解消されているように思われ、非常に好感を持てた。

小林さんちのメイドラゴン-6

小林さんちのメイドラゴンの原作に一通り目を通したので、アニメ化の成否について10話放映終了時点での見解を述べておきたい。先に結論を言えば、アニメ版の小林さんちのメイドラゴンには、原作と独立した価値を見出し得ると考えている。

 

 アニメ版が原作と一線を画し、それによって独自の価値を生み出し得ている最大の理由は、小林・トール・カンナの疑似家族関係を前面に押し出した作品作りをしている点にあるように思われる。ここで描かれる関係においては、小林がどちらかといえば父親役、トールが母親役、カンナが娘役を演じているように見える。

しかし、それにもまして重要なのは、この関係があくまで「疑似」家族であって本当の家族ではないことに十分考慮が及んでいることである。その配慮は二つの方向に現れている。一つは小林とトールの関係であり、家族とも主従とも、恋人とも姉妹とも友達とも確定し切れない微妙で複層的な感情の揺らぎが緻密に描かれている。この観点から言えば8話が最も重要であろう。そしてもう一つは小林とカンナの関係であり、ここではむしろ小林が逆にカンナとの疑似家族関係を重視して、カンナの保護者として振る舞う姿が描かれている。9話において、小林がカンナの運動会に「行きたい」のではなく「行くべきだ」と考えたのはこのような観点から理解される。

 

そして、いまアニメ版小林さんちのメイドラゴンは、上述の疑似家族関係とその諸相を描くことを主要な骨格にしつつも、人間とドラゴンの本質的な価値観の相違からくる葛藤という、原作で重視されていると私が考えるところのテーマからは軸足を離しつつあるように思う。8話乃至10話においては、対立や葛藤よりもむしろ、人間界に馴染みつつあるドラゴンが、各々の個性を人間界の制約のもとで発揮することの面白味を描く段階に入っているよう感じている。

小林さんちのメイドラゴン-5

9話放映時点での8話に対する見解を記す。

 

私の知る限り、アニメ版のメイドラゴンは小林・トール・カンナの関係性を家族愛に寄せて描いているという見解があるところ、これには賛成できる。例えば2話でこそカンナが小林の家に乗り込んだときにトールはカンナにやきもちを焼いていた(?)ようにも見えるが、それ以降トールはカンナのことを妹ないし娘として愛しているように見える。またカンナが小林に抱きつくなどして甘えても、トールはそれに嫉妬するよりはむしろ微笑ましそうに二人を眺めているように思える。これ以上具体的な検討を待つまでもなく、家族愛の描写にひとつの重点が置かれていることに異論はないだろう。

 

そしてそうであるからこそ、8話で小林とトールの関係に、家族関係という問題を脇に置いたうえで再び焦点が合わせられたのは意義深いということになる。ここでは8話ラストの小林が少し背伸びしてトールの頭を撫でるシーンに、小林なりの精一杯さ、愛情の深さが感じられて本当に尊いということをまずは述べておきたい。友達、親友、姉妹、恋人、主人とメイドなど、関係性を表す既知の語彙のいずれも恐らく直ちには当てはまり得ない特別な関係をここに見出すことができる。

君の名は。-2

私は「君の名は。」に関する巷の見解を見ても意図的に全てスルーしているのだけれど、それでも幾つかの見解が記憶に残っているので、これを紹介した上で若干のコメントを加える。

 

1.

以前女子高生か何かの二人組が喫茶店で、「『君の名は。』を見たが、内容を全て忘れた」と述べていた。

本質的な視聴姿勢である。作品の趣旨に合致している。その場でエモーショナルな気分になり、あとは特に言及しない、良い映画なのかそうでもなかったのかよく分からない、そもそも何も覚えていない、まぁいいや。「君の名は。」に一家言ある諸氏が百家争鳴の中、実に潔く、尊敬に値する。

 

2.

友人が次のようなことを言っていた。曰く、「ショートカットの三葉が映る画面がとても快適だった」と。また曰く、「インターネット上で三葉のショートカットに触れる意見をとんと見掛けない」と。

私も三葉は髪を切った後のほうが可愛いと思っているのだが、それは色々な好みの問題としてさて置き、本作に出演する女の子の可愛さに言及する人々の数が極端に少ないのは彼の指摘の通りと思われる。何故だろうか。背景の描き込みと熟慮された主題歌とそれらが相俟って形成された雰囲気に幻惑されてしまうからだろうか。それとも脚本の粗が目立つからだろうか。

私は何度も強調している通り、「君の名は。」のストーリーに観るべき点、評論すべき点は特に無いと考えている。それを前提に視聴して、どれだけ快適な気分になれるかが視聴者の本領を発揮すべきポイントである。その意味で、「ああ、田中将賀御大のショートカット女子が画面いっぱいに映っている、快適だ」という体の視聴姿勢は実に適切であると言わざるをえない。

君の名は。

私は「君の名は。」を良い映画だと考えている。そこでそのように考えるに至った背景について、本作の大雑把な解釈を交えながら述べたいと思う。

 

本作はしばしば恋愛映画だと称されているように私の目には映るが、私はそのようには考えておらず、むしろ未完成の自意識への気付きと統合を描いた作品だと捉えている。瀧と三葉は人格を分有しており、二人は出会いと別れを経て片一方では未だ不完全な自己の人格に直面する。自己の半身を探す過程は本作で特に描かれてはいないが、最終的に二人は再び出会い、自意識が完成する。

 

ここまで書いてみて、だからどうした、それが何だという気分になってきた。そもそも私は本作の意義に興味がないし、と言うか特段深い考察を要すべき意義自体が存在しないと考えていたのだった。そうであるからこそ私はのびのびと気楽に綺麗な背景と素晴らしいキャラクターデザインを楽しめたし、作中随所に散りばめられていたように思われる問題も全部彗星が吹き飛ばしてくれるので考察する必要もなく、視聴から二時間で完全にスッキリ爽快な気分になって映画館を後にできたということになるわけである。

多くの批判が寄せられているように思われるエンディングについても、まあ後ろ三分をカットして具体的な再会シーンを描くことなくそれを示唆するに留めたとしても十分ハッピーエンドであることが伝わったようにも思うが、分かり易さを重視したというのならそれはそれでいいような気もするし、そんな細かいことはどうでもいいのではないか、という感想だけがある。彗星が全ての問題を破壊した時点で私は本作が一切の思考を要求していないのだと解釈したし、そのように観れば実に快適な映画だったという気分以外何も残すことなく脳内の雑念と一緒に綺麗さっぱり忘れることができるのである。

2-5

この世界の片隅に」に言及する。私は三つの理由からこの映画をあまり気に入っていない。すなわち、

1.「戦争の間も変わらず営まれてきた日常がある」という主張に面白みを感じない

2.日常の精緻な描写に関心が持てない

3.のんの演技が聞き苦しい

 

この三つの理由が大体1:1:98くらいの重み付けで私の中での評価を決している。しかしながら3の見解については、すずはのんのハマり役であって他のどの声優が演じてもこれ程共感を呼び起こしはしなかっただろうといった全く相反する見解が多数見られるところであり、またそれに特段の異論を差し挟もうという気力も無い。私は幼少期のすずとの演じ分けが出来ていない時点で完全に無理になってこの映画への評価がストップ安となり、120分以上にわたってのんの演技を聴くのが苦痛ですらあったのだが、それは個人の好みの問題であり、他人がそうでないからといって私がどうこういうことではないだろう。

そこで、私の本作に対する評価との関係では殆ど重要ではないのだが、上記の見解のうち1及び2に限って若干のコメントを述べる。

 

1に述べた本作の主張(だと私が思ったもの)については、それはそうですね、という感想しか持てなかった。妥当な主張だし、そのような観点から戦争を観ることに意義を見出す人もいるだろうとは思うが、私とは特に関係のない主張だとも感じ、終わってしまった。

2は私にとってより重要である。2の見解を換言すれば、日常を日常として描くことは日常を題材にしたアニメの前提であり、その日常が尊くかけがえのないものであることこそが日常アニメの良さを最終的に決定するのだ、という私の常日頃抱いている見解からすれば、本作は日常の描写に固執するあまり日常の尊さを十分伝え得る作品ではなくなってしまった、ということになる。

もっともこのような感想が妥当なものの見方か振り返ってみると疑問ではある。本作の登場人物にとっては、戦争をも織り込んだこの日常こそが全てであり、その彼女達にとっての全てを強烈なリアリティを以って描いた本作は、まさにそのリアリティ故に圧倒的な存在感を以って私達に語り掛けて来るのである、などとも評しうるからである。

 

しかしそうであるからと言って、私がそれに耳を傾けることができたかどうかというのは別問題である。私はのんの演技が耳に合わずに作品全体に対して耳を閉ざしてしまい、そこで終わってしまったのである。