蝋板に鉄筆で

自由帳

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オタクコミュニティの内部における寛容について一言する。このテーマは、けいおん!について述べる際の前提になると私は考えるので、早い段階で言及しておく必要がある。

ひとがあるコンテンツに触れたときに持ち得る見解は多種多様であり、自分の持つ見解と異なる、あるいは相反する見解を有する人間を見出すのは実に容易いことである。従って、彼らとどう接するべきかについてひとは何らかの立場に立たなければならない。コンテンツに対して有する見解を語り合う上では当然のことである。

さて、異なる見解にどう対応するか、様々な立場が考えられるところであるが、ここでは「多様な見解に寛容な態度を取るべきであり、見解の自由な表現を妨げないよう心掛ける」という立場に対する私の見解に絞って述べる。まず後段に関しては、このような立場を相互に承認する限りで認められると考える。他人がコンテンツに対して如何なる見解を持とうと全く自由であるし、その見解を表明することも、それが別の人の見解の表明に制約を加えるものでなければ当然自由になされるべきものである。

しかしながら、前段に関しては、まず寛容の意義が問題となる。寛容を、他人に自らの見解を自由に言わせておくだけのことと捉えるのであれば前段の主張も認められようが、それでは後段の主張と差異がないから、ここでは寛容を別の意義と見る必要がある。そこで、寛容をあらゆる見解を一聴の価値あるものと捉えて耳を傾けるべきであるという趣旨と捉えることとする。しかしもしそうであるとすれば、前段の主張は無条件に賛成できるものではなくなる。私達はあらゆる見解に対して耳を傾けるほどのリソースを有していないのであり、それゆえあらゆる見解にこのような意味で寛容であることは不可能である。そしてどの見解に耳を傾けるべきか、私達は何らかの基準を持たなければならない。次なる問題は、如何にしてその基準を設けるかであり、更に検討を要する。