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蝋板に鉄筆で

自由帳

谷間のゆり

バルザック『谷間のゆり』を読み終えたので、モルソーフ伯爵という人物について一言だけ述べてみる。

 

このモルソーフ伯爵という人物、長年の亡命生活ですっかり精神を病んだ果てに帰国し、その傷も癒えぬまま家中の者に暴虐の限りを尽くすという形で描かれているが、どうにも私には先天的な精神障害であるように見える。今風に言えばいわゆるアスペルガーということになろう。モルソーフ伯爵は、他人の気持ちを全く察することができず、家政を取り纏める何らの能力も持たず、そのくせ極度に神経過敏で自意識過剰な一面を持ち、絶えず家中で自分ばかりが犠牲になっているとの錯覚に囚われている人物である。

モルソーフ伯爵の妻アンリエットに主人公フェリックスが熱烈な恋愛感情を抱き、彼女に接近することは、とりもなおさずモルソーフ伯爵との関係に踏み入り、彼女の結婚生活における壮絶な苦痛を共有することであった。他者を察することのできないモルソーフ伯爵であるから、フェリックスの恋愛感情にも恐らく最後まで気付いていなかったのだろうと私は思うのだが、それでも自分が除け者にされることを極度に嫌う人物でもあるから、絶えずフェリックスとアンリエットの間に割り込み、あるいはフェリックスをむやみとバックギャモンの勝負に引きずり込んで引き留める。その鬱陶しさとやり場のない絶望感を身を以て知ることで、ますますアンリエットの守る貞淑の価値が高まるのである。

しかし、アンリエットが貞淑を貫き通す限りアンリエットはフェリックスのものにならない。フェリックスは結局肉欲に負けて軽薄なイギリス女との恋愛に溺れ、アンリエットを深く傷付ける。もとよりフェリックスは、アンリエットの貞淑のさらに内奥を知る由もなかったのである。