灼熱の卓球娘-3

1.

大要、ざくろがくるりに求めていたのは、「くるりの卓球の強さ」ではなくて「くるりくるりであること」であり、この無償の愛がくるりを救ったという見解を目にした。これに対して私は、ざくろがくるりに無償の愛を向けているという主張自体非常に魅力的であると感じたが、くるりがざくろに対して向ける感情は少なくとも10話開始時点においては無償の愛ではなかったし、10話終了以降もなおくるりがざくろに「ざくろがざくろであること」を求めているわけではないという点で双方向性の観点から些か難があるように思った。くるりという人格、ざくろという人格を個別に考えず、二人の関係性を軸に一体のものとして捉える観点ゆえである。

 

2.

ざくろがくるりに向けた感情の起点が強さへの憧れであっただろうことは既に述べた。しかし続けて、新入部員が皆辞めて、ざくろがくるりと二人きり取り残された、もず山冬の時代のことを考えなければならない。ざくろはどう変わったか。

練習でも真っ先にへたばってしまい、また鈍くてすぐに転んで傷だらけになってしまうざくろは、もしかしたらあまり自己肯定感の高い子ではなかったかもしれない。でも、くるりの一対一指導のもとで、くるりとずっと打ち合いを続けて、憧れのくるりに少しずつ近づいていったのである。その中で少しずつ自信を付けていったかもしれない。そして二年に上がって、くるりから部長を代わってくれるよう頼まれて、その自信がいわばくるりのお墨付きが付いた、根拠ある自信に変わったのかもしれない。そうやって、ざくろがどっしりとした大樹のように、もず山の屋台骨となって、部の皆を全国に導くことが出来たのかもしれない。私の想像力で補完できるのはこの程度である。

 

3.

くるりのことはまた後で考えるとして、灼熱の卓球娘の根本的な問題に触れておく。私は上述の如く、ざくろ、くるり両人の人格は二人の関係性を前提としてはじめて明晰に浮かび上がってくるものであり、個としての存在感は希薄であるように感じている。確かにくるりなどは奇矯な行動が目立つから、一見個性が強いように見えるかもしれないが、私はそれを人間の描写というよりはむしろ属性の付与と呼ぶべきものだと考えている。そうでないとしても、至極一面的な描写に思える。

このアニメは一対一の熱い関係を描くという点ではよく成功していると思う。個々のキャラクターの人間描写の薄さは対応するキャラクターとの関係性の描写で十二分に補われている。その上、一対一関係と一対一関係の関係、具体的にはこより・あがりとざくろ・くるりの関係同士のぶつかり合いの描写も極めて優れている。9話、10話を観れば明らかである。

しかし、特定カップリング以外の一対一関係、あるいは11話における雀が原2年生組の入浴シーンや夜会話シーンのように複数人が一堂に会する場面における多人数間人間関係の描写はさほど上手く行っていない、端的に言えば会話にあまり面白味が感じられないように思われるのである。その原因は今まで縷々述べてきたように、個々のキャラクターの描写が特定キャラクターとの関係に偏って掘り下げられており、自立した人格の描写があまり緻密に行われていないからだろうと考えている。

もっともこのような問題を抱えていたからといって、灼熱の卓球娘の価値は殆ど毀損されない。灼熱の卓球娘は特定カップリングの一対一関係を楽しむアニメーションであると割り切ればそれで足りるし、その描写はずば抜けて優れているのだから。