蝋板に鉄筆で

自由帳

ステラ女学院高等科C3部-3

3.

先日知人と議論した結果、霊的存在が本作の非常に重要な構成要素として浮かび上がってくることが判明した。ゆらの内面の問題との関係では霊的存在の意義は極めて大きい。そしてまた本作で霊的存在が本重要視されていることは、本作が他にも多数の問題提起(その詳細については今後より正確に詰める必要がある)を行いながら、事実上の最終回である12話でその殆どに解答を与えなかったことの理由を考える上でも重要なポイントとなりうる。そこで本作での霊的存在の描かれ方とその意義について極々簡単に言及しておく。

 

本作はゆらの内的生活について1話から継続してスポットを当てているという点をまずは押さえる必要がある。もとよりゆらは非常に豊かな内的生活を有しているおり、しばしばゆらは自らの置かれた状況を脳内で想像力逞しく増幅する。非常に内向きで内省的な人間である。

この内省はしかし、ゆらが内面に抱える問題を解決するうえで必ずしも役に立たない。ゆらは状況を増幅するだけで、自らの抱える問題の核心を捉える力に優れているとは言えない。袋小路に陥ったとき、ゆら一人では状況を打開できないのである。

そこで一歩進んで、ゆらがいわば悟りを開くために、霊的存在が出現して進むべき道を指し示すことになる。本作では霊的存在は問答の相手方とはなっておらず、ゆらの内省もそれに基づく行動も何ら功を奏さないデッドロックを打開する切り札としての役割を持たされているように思われる。

もっとも、霊的存在が解決する問題はあくまでゆらの内的生活に関わるものに留まる。ゆらが悟りを開いたところで、例えばC3部におけるカリスマの問題やC3部の他の面々とのコミュニケーション不全について何か解決策が得られるわけでもない。このことが一方で12話をいかにも消化不良に思わせる要因となっている。他方で、ゆらを取り巻く外在的な問題はあくまでゆらの内省を深め、ついには袋小路に追い込むための道具立てに過ぎないとの見方も可能であろう。そうだとすれば、視聴者としてはいささか拍子抜けではあるけれども、作中で提起された一連の重要な問題群に殆ど解答を与えず、単にゆらの内的生活の成熟のみを描いた12話の態度も一応正当化されることになろう。