灼熱の卓球娘-2

卓球娘は真っ直ぐな想いをストレートに卓球でぶつけ合う熱いアニメ、と言えば多分間違ったことを言ったことにはならないのだけれど、その彼女達の真っ直ぐな想いがどうやって育まれてきたのかと考えると、カップリング単位で見ていくのが妥当らしいという結論に落ち着く。そこでざっと見渡すに、ざくろとくるりの関係性について立ち入った言及を行わないのでは卓球娘について話したことにならないと思ったので、彼女達の関係を検討する。

 

二人の関係のはじまりに遡ると、ざくろのくるりに対する憧れが根源に見出される。ここで目を惹くのは、その憧れがただ見ているだけのそれではなくて、自分もそうなりたい、全国で勝ちたいという意味で「本物」であるということである。それは退部した部員の「新入生に負けて先輩の面子丸潰れ」だの「わたしは面白おかしく全国に行きたかっただけだから」だのと言った台詞との対比でより明らかになる。ざくろはそのようなことは意に介さないのである。躓いてもへたばってもくるりに喰らいついて、くるりとの練習に付いて行く。その本物の気持ちがくるりに届くというわけである。

 

ざくろからくるりに対する気持ちのうちはじまりの部分を反芻した段階で最高の気分になり、先を書けなくなってしまった。

灼熱の卓球娘

積んでいた灼熱の卓球娘を鑑賞し、本当にいい気分になったのでその感想を記す。

 

このアニメは、キャラクター各人の個性自体はさほど巧妙に描かれている感じはしない。決めゼリフや決め技などで割合大雑把な味付けがなされているように思った。

でも、その薄いキャラを補う、幾つかのカップリングの関係性の表現が本当に良い!最小限のエピソードで最大限の効果を上げている。キルカとムネムネの入部時の決意とか、ざくろとくるりの部活動の部活動の経歴とか、大して尺も使っていないのに各々のカップリングの絆の強さが非常に説得的に伝わってくる。何故説得的なのか、実はよく分かっていないのだけれど、恐らくは強い絆の結び目の部分―全国で勝ちたい、強くなりたい、ドキドキしたい、ざくろの笑顔を見たい―という、最重要の部分をストレートに単純な言葉と熱い作画で表現してくれていることが、観る側の快感に繋がっているのだろうと思っている。

で、全体を通して特筆すべき名エピソードはやはり9話、10話だろうと思う。こよりとあがり、ざくろとくるりの関係性をそれぞれ描くだけでなく、その関係性をぶつけ合う描写に心打たれた!互いが情熱を一打一打に込めて死力を尽くし合うド直球の脚本、ナイス!ベリーナイスです!

1-7

日に日に記事を更新するのが苦痛になってきて、昨日いよいよその閾値を超えたので毎日更新を断念したのだけれど、それは何故なのか考えてみると、書きたくもないようなことを書かざるを得ない袋小路に自ら嵌り込んでしまったからだと悟った。

 

あるコンテンツを好きだと思うにせよ嫌いだと思うにせよ、あるコンテンツに対して自分なりに何らかの解釈を施して、その解釈から得られる観念が自分の中に色々な感情をもたらすのだと考えていた。しかし、この考えは誤りなんだと今では思う。コンテンツはもっと直接私に語り掛けてきている。あれこれ頭を捻って解釈を考えるより先に頭の中にイメージが形成されて、好悪の感情が生まれる。解釈は感じたことを後から振り返って理由付けするツールにはなるけれど、コンテンツを受容する過程で受けた強い印象、感覚、衝撃を伝えるのには必ずしも、あるいは全く役に立たない。それこそが今ここで語りたいことだというのに!

結局のところ、どうでもいい事柄を書くのに使う時間は苦痛そのものだし、誰かに求められて書いているわけでもなし、コンテンツの解釈を示すという方向でものを書くのは取り止めて、今後はあるコンテンツが好きだ/嫌いだ、それは何故なのか、いかなる要素がそのような印象を与えたのか、という観点から色々と書いていきたい。これもまたイメージを字数の制約なしに言語化するという所期の目的に即するところだろう。

1-6

けいおん!1期を場の軽音部を主題に捉えたものとして理解する意義について考えていたが、その前提としてアニメにおける主題の位置付けを検討したところ混乱を来したので、その有様を記す。しかし結論としては意味のない考察に終始しているように思われる。

 

けいおん!に限った話でなく、あるアニメの主題が何かを考えることの意義は、そのアニメが現実のいかなる問題を切り出し、その問題に対していかなる条件下で妥当する解答を与えようとしているか検討する最初の足掛かりになることだと私は考えている。しかしながら、もとよりこの主張の当否が大問題である。そもそもあらゆるアニメに主題があると考えうるか。恐らく答えは否である。しかしあらゆるアニメに主題が必要かと言えば、それも答えは否であろう。あるアニメが何らの問題も提起せず、従って何らの解答を生まないとしても、あるアニメそれ自体が現実に対して何らかの意味や効果を持つことはあろう。その意味や効果を作品それ自体に内在する要素からのみ特定することは恐らく不可能であり、主題の問題提起とそれに対する解答が対応するタイプのアニメとは別の分析枠組で考察しなければならないだろう。もっともその対応というのも、視聴者自身の問題意識の反映と区別しうるのか、疑問なしとしない。

 

ここまで色々と考えてみたが、さしあたり全てのアニメを論じる必要はなく、従ってそのための枠組を用意する必要もないのである。であるからして、問題の拡散を防ぐべく、例えばけいおん!の話をするにしてもこのアニメがある問題を切り出してそれに対する解答を与えているということははじめに仮定しておき、その仮定が正しいこと並びに問題提起及び解答を、できる限りアニメに描かれている事柄を直接の根拠としながら述べていけばよいわけである。

けいおん!

私は、けいおん!は完全な作品であり、けいおん!!は完全とは言えないまでも非常に優れた作品だと考えている。そこで本作については委細を尽くして思うところを述べていきたいと考えているが、いざ言語化しようと思うと中々難しく、どうしても「良いものは良い、だから良い」という水準の言及に留まってしまう(あるいはそれが良い作品であることの証左なのかもしれない)。今回は、けいおん!の1期2期を通貫して理解するのに資するかもしれない見方の一つについて、前々から考えていたことの一部の頭出しを行う。

 

私はけいおん!の1期と2期は明確に異なるコンセプトで作られた作品だと考えている。あるいは、唯達の学年の変化に応じて1期を二つに分け、2期と合わせて三つの時期があると考えることができるかもしれない。すなわち、①1期8話までは人間関係の草創期、②1期9話以降は梓が入部したことのインパクトに軽音部が反応し、吸収し、受容する人間関係の変革期、③2期が人間関係の円熟期である。今更言うまでもないような理解であろう。これを換言すると、①が唯に対して人間関係が開かれた時期、②が梓に対して人間関係が開かれた時期、③が人間関係の閉じた時期だとも言えるだろう。そしてこの言い換えをバネにして、1期を場の軽音部の時期、2期を人の軽音部の時期と言えないかどうかということを、長い間考えているのである。

1-5

あるコンテンツを他人から薦められることについての見解を略述する。

 

先だってあるコンテンツに対する見解の全てに耳を傾けるリソースを私達は持ちえないと主張したが、それ以前に、私達が摂取できるコンテンツの量にもまた限界があるのである。全てのコンテンツを楽しむどころかほんの少しずつ触れて確かめることすら非常に困難であるから、何らかの方法で選別する必要がある。他人の薦めるコンテンツを摂取するのは選別の一手段である。

 

さて、私は他人のお薦めコンテンツを積極的に採用することに好意的であるが、その最大の問題点を確認することは有意義であろう。すなわち、お薦めしてくれる当該他人の選別にどこまで信頼が置けるか、である。コンテンツを薦める他人を無作為に選出するのであれば、それはいわゆる世間で売れている流行物に飛び付くのと変わらないのであり、よいコンテンツを効果的に摂取することに繋がるのか、実に疑問である。つまり私達の判断対象がコンテンツそれ自体からコンテンツを摂取し評価する他人へと取って代わるわけである。

他人の評価の確度を検討するには、結局当該他人が薦めてくれたコンテンツに一度は触れてみる必要があろう。それが自分にどの程度適合するコンテンツだったか、そしてそれ以上に当該他人にとってどの程度適合するコンテンツだったかを確認し、当該他人との感性の距離を測り、当該他人の評価に自分の中でいかなる重み付けを与えるべきかを決定するのである。他人を知り、コンテンツを知り、翻って己を知るということである。

谷間のゆり

バルザック『谷間のゆり』を読み終えたので、モルソーフ伯爵という人物について一言だけ述べてみる。

 

このモルソーフ伯爵という人物、長年の亡命生活ですっかり精神を病んだ果てに帰国し、その傷も癒えぬまま家中の者に暴虐の限りを尽くすという形で描かれているが、どうにも私には先天的な精神障害であるように見える。今風に言えばいわゆるアスペルガーということになろう。モルソーフ伯爵は、他人の気持ちを全く察することができず、家政を取り纏める何らの能力も持たず、そのくせ極度に神経過敏で自意識過剰な一面を持ち、絶えず家中で自分ばかりが犠牲になっているとの錯覚に囚われている人物である。

モルソーフ伯爵の妻アンリエットに主人公フェリックスが熱烈な恋愛感情を抱き、彼女に接近することは、とりもなおさずモルソーフ伯爵との関係に踏み入り、彼女の結婚生活における壮絶な苦痛を共有することであった。他者を察することのできないモルソーフ伯爵であるから、フェリックスの恋愛感情にも恐らく最後まで気付いていなかったのだろうと私は思うのだが、それでも自分が除け者にされることを極度に嫌う人物でもあるから、絶えずフェリックスとアンリエットの間に割り込み、あるいはフェリックスをむやみとバックギャモンの勝負に引きずり込んで引き留める。その鬱陶しさとやり場のない絶望感を身を以て知ることで、ますますアンリエットの守る貞淑の価値が高まるのである。

しかし、アンリエットが貞淑を貫き通す限りアンリエットはフェリックスのものにならない。フェリックスは結局肉欲に負けて軽薄なイギリス女との恋愛に溺れ、アンリエットを深く傷付ける。もとよりフェリックスは、アンリエットの貞淑のさらに内奥を知る由もなかったのである。