蝋板に鉄筆で

自由帳

2-5

この世界の片隅に」に言及する。私は三つの理由からこの映画をあまり気に入っていない。すなわち、

1.「戦争の間も変わらず営まれてきた日常がある」という主張に面白みを感じない

2.日常の精緻な描写に関心が持てない

3.のんの演技が聞き苦しい

 

この三つの理由が大体1:1:98くらいの重み付けで私の中での評価を決している。しかしながら3の見解については、すずはのんのハマり役であって他のどの声優が演じてもこれ程共感を呼び起こしはしなかっただろうといった全く相反する見解が多数見られるところであり、またそれに特段の異論を差し挟もうという気力も無い。私は幼少期のすずとの演じ分けが出来ていない時点で完全に無理になってこの映画への評価がストップ安となり、120分以上にわたってのんの演技を聴くのが苦痛ですらあったのだが、それは個人の好みの問題であり、他人がそうでないからといって私がどうこういうことではないだろう。

そこで、私の本作に対する評価との関係では殆ど重要ではないのだが、上記の見解のうち1及び2に限って若干のコメントを述べる。

 

1に述べた本作の主張(だと私が思ったもの)については、それはそうですね、という感想しか持てなかった。妥当な主張だし、そのような観点から戦争を観ることに意義を見出す人もいるだろうとは思うが、私とは特に関係のない主張だとも感じ、終わってしまった。

2は私にとってより重要である。2の見解を換言すれば、日常を日常として描くことは日常を題材にしたアニメの前提であり、その日常が尊くかけがえのないものであることこそが日常アニメの良さを最終的に決定するのだ、という私の常日頃抱いている見解からすれば、本作は日常の描写に固執するあまり日常の尊さを十分伝え得る作品ではなくなってしまった、ということになる。

もっともこのような感想が妥当なものの見方か振り返ってみると疑問ではある。本作の登場人物にとっては、戦争をも織り込んだこの日常こそが全てであり、その彼女達にとっての全てを強烈なリアリティを以って描いた本作は、まさにそのリアリティ故に圧倒的な存在感を以って私達に語り掛けて来るのである、などとも評しうるからである。

 

しかしそうであるからと言って、私がそれに耳を傾けることができたかどうかというのは別問題である。私はのんの演技が耳に合わずに作品全体に対して耳を閉ざしてしまい、そこで終わってしまったのである。

小林さんちのメイドラゴン-4

7話時点で本作に対して言い得ることを述べる。

 

1.

ファフニールやルコアはトールの保護者的な位置に付いて話を回していくのだと4話時点では考えていたが、そうではなく、各々人間に何らかの関心を持ち、従前の人間観に修正を加えていくことになるようだった。小林とトール間の関係とパラレルに、異形のドラゴンが人間界で生きることの意義を多角的に描写することに繋がるだろう。

 

2.

非常に早い段階から示唆されていたとは思うが、本作は過去の確執や未来への不安は全て抜きにして、今この瞬間に、ドラゴンと人間が互いに異なる価値観を持ったままで共に生きていることに焦点が当てられ、それが如何に尊いかを強く表現していると感じる。かつ、その主張の当否は問題とならず、如何に説得的にそう主張できるかで勝負しているようだ。

5話のスプーン曲げのくだりで、トールが「分かってます…分かってますよ」と言うシーンで小林がトールに伸ばして、でも届かない手とか、7話のトールの背中に乗る小林とトールとの会話で小林が感じた悲しさとか重さとか、どうしたって価値観を共有できないことは色々な場面で示唆される。それでも、互いになにかしら愛着を持って一緒に過ごしている。

相手の寿命が先に尽きるかもしれない?そんなことは今この瞬間問題にはならない。トールのように一緒に居たいと思える人間と一緒に居て、あるいはファフニールのように心地良い距離感の人間と面白いと思ったことにのめり込んで、それで十分幸せなのである。

 

繰り返すように、この主張の当否はこの作品内では問われないだろう。この主張に全く相反する帰結をもたらす主張を説得的に為す作品が対置されたうえではじめて、この作品の真価が問われるかもしれない。

けいおん!-3

けいおん!から私が抽出した日常系アニメの要件についてごく簡単な素描を行う。ここではけいおん!に関する具体的な言及は行われない。

 

優れた日常系アニメは、次の二つの要件を満たすと考える。すなわち、

1.日常が描かれていること

2.1で描かれる日常がかけがえのないものであること

 

1.

日常が描かれているとはどういうことなのか、考えてみるとよく分からない。よく分からないのにそれを日常系アニメの要件として挙げているのはどうなのか、ということになるが、それはそもそも日常系アニメという呼び方に内在する問題だろう。もしかすると、非日常でないこと、非日常的要素が極力排除された描写がされていることが日常を描いていることと言えるのかもしれない。

いずれにせよ、そこで描かれる要素はありふれたものでなければならない。奇矯な人物が異様な掛け合い漫才を為すアニメはコメディでは有り得ても日常系アニメではないだろう。異常は日常になじまない。人物と状況が十分現実的であり、描写が私達の想像力の外側に踏み出さない程度に抑えられていることが必要なのだろうと思う。

 

2.

とにもかくにもこうして何らかの意味における日常が描かれたとしても、その日常に特別の意味がないのでなければ描かれる意味がない。かけがえのない日常とは誰にとってか、またどの時点においてか。

私達がアニメを観た後で改めて自らの日常を振り返って、それがかけがえのないものだと気付くことがあるかもしれない。しかしそのことと、描かれた日常それ自体が価値あるものだということとの間にはまだ距離がありそうである。描かれた日常の価値が問題である。しかも、その日常を営む者がその日常に価値を感じることが必要である。私達の日常の価値を私達が決める如く、作中の日常の価値は作中人物がこれを決するのである。

その価値はいつ決せられるか。日常を営む中でふとした瞬間にその価値を見出すもよし、後から振り返って積み重ねられた日常の輝きに気付くもよし、とにかく作中人物がこれを見出すことが最重要である。

灼熱の卓球娘-4

ざくろのくるりに対する感情の変化は大方検討したところだが、くるりのざくろに対する感情はどうか。管見の限り、この点については既に優れた検討が存在するため、私が敢えて付け加えることはないのだが、要点をまとめておきたい。

 

くるりは自分の卓球に対する姿勢に関して確かにざくろという賛同者を得たわけだけれど、心の何処かで部を崩壊させてしまったことに対するざくろへの負い目があったに相違ない。そうでなければ二年からざくろに部長を任せず、自分が正しいと思うやり方でもう一度後輩を指導したことだろう。

そこでくるりは、ざくろを部長に推挙して、ざくろにもず山を全国へと導かせることを「自己満足」と評し、自身はざくろの為に勝利を献上することへと徹したのである。そこではくるりは自身の存在意義を勝利に求めるより他なかった。

結論だけ言えば、くるりはそのように自分を追い詰める必要が全く無かった。ざくろと過ごした時間の中にこそ彼女の本当の存在意義があったのだから。

1-8

最近巷では「けものフレンズ」というアニメが流行っているけれど、私はこれを視聴していない。あるアニメを視聴していないからといって直ちにそのアニメに対する言及をすることができないとまでは言えないけれど、私は当該アニメの台詞や表現を十分意識し時には引用して論じた見解のほうが優れていると思うので、やはり本体にコメントするのは避けておきたい。

それはそうと、けものフレンズの流行は大したものである。全く偏った見方であることを覚悟していうと、何らかの創作を嗜む人々の受けが良いように感じる。設定なり小道具なり世界観なり、きっと魂をくすぐる何かがあるのだろう。私は一話をちらちらと見ただけで、特に何も感じることなく脱落してしまったので、多分向いていないのだろう。

向いていないといえば、ガールズ&パンツァーという作品があって、私はかなり頑張ってシリーズすべて視聴したものであったが、どうも全体としてはこれといって面白いという印象を受けなかった。けれども世の中では、というか創作を嗜む人々の界隈では相当に流行っていた印象を受けるし、これまた二次創作が盛んなジャンルと言って差支えないだろう。

 

創作と解釈の間には多分明らかな切れ目がない。与えられた設定なり世界観なりを整合性あるよう配列する行為は少なくとも解釈だろうと勝手に私は解釈しているけれど、設定の欠缺を補う行為はもしかしたら創作なのかもしれないし、単に設定や世界観を秩序付ける行為にすら私達の願望や妄想は入り込み得るだろう。従って創作と解釈をぱっきり切り分けてみる試みはどうも成功しなさそうだ。

 

とはいえ、私の自己認識の上では、私は創作にわたる活動を過去一度もやったことがない。自分の中に表現したいと思える何物も持たないからである。そうである以上は、与えられた素材から確実にここまでは言えるだろうと思える範囲において物を言おうと努めるだけであり、逆にその境界線を踏み越えて何か新しい世界を作ってみようとは今の所一切全然思わないのである。

けいおん!-2

以前けいおん!1期は完全な作品であるという主張をしたが、それは誤りではないけれどもここで言葉を尽くして明らかにしたい事柄ではないと気がついた。むしろ、けいおん!は1期2期を通じて常に最善の作品であるということを申し上げたいのである。

 

けいおん!が最善の作品であるとはどういうことか。それは、けいおん!の登場人物、彼女達の人間関係、軽音部の活動内容の全てが善良であり、従って希望に満ち溢れているということである。

およそ人間というものは単体でも悪であり、三人集まれば最悪、五人集まれば完全に破滅だというのが通説的見解と思われるが、けいおん!シリーズで描かれる人間及びその活動はいかなる意味においても善である。あまりにも善でありすぎるから、到底私達の人間生活では有り得ない事象が描かれているように思われる。けいおん!における善は極めて特殊な複数の条件が揃ったうえで奇跡的に生じ得たものである。

そうであるとするならば、如何なる条件が善を可能ならしめているのか追求すべきことは当然である。けいおん!第一の魅力である。

灼熱の卓球娘-3

1.

大要、ざくろがくるりに求めていたのは、「くるりの卓球の強さ」ではなくて「くるりくるりであること」であり、この無償の愛がくるりを救ったという見解を目にした。これに対して私は、ざくろがくるりに無償の愛を向けているという主張自体非常に魅力的であると感じたが、くるりがざくろに対して向ける感情は少なくとも10話開始時点においては無償の愛ではなかったし、10話終了以降もなおくるりがざくろに「ざくろがざくろであること」を求めているわけではないという点で双方向性の観点から些か難があるように思った。くるりという人格、ざくろという人格を個別に考えず、二人の関係性を軸に一体のものとして捉える観点ゆえである。

 

2.

ざくろがくるりに向けた感情の起点が強さへの憧れであっただろうことは既に述べた。しかし続けて、新入部員が皆辞めて、ざくろがくるりと二人きり取り残された、もず山冬の時代のことを考えなければならない。ざくろはどう変わったか。

練習でも真っ先にへたばってしまい、また鈍くてすぐに転んで傷だらけになってしまうざくろは、もしかしたらあまり自己肯定感の高い子ではなかったかもしれない。でも、くるりの一対一指導のもとで、くるりとずっと打ち合いを続けて、憧れのくるりに少しずつ近づいていったのである。その中で少しずつ自信を付けていったかもしれない。そして二年に上がって、くるりから部長を代わってくれるよう頼まれて、その自信がいわばくるりのお墨付きが付いた、根拠ある自信に変わったのかもしれない。そうやって、ざくろがどっしりとした大樹のように、もず山の屋台骨となって、部の皆を全国に導くことが出来たのかもしれない。私の想像力で補完できるのはこの程度である。

 

3.

くるりのことはまた後で考えるとして、灼熱の卓球娘の根本的な問題に触れておく。私は上述の如く、ざくろ、くるり両人の人格は二人の関係性を前提としてはじめて明晰に浮かび上がってくるものであり、個としての存在感は希薄であるように感じている。確かにくるりなどは奇矯な行動が目立つから、一見個性が強いように見えるかもしれないが、私はそれを人間の描写というよりはむしろ属性の付与と呼ぶべきものだと考えている。そうでないとしても、至極一面的な描写に思える。

このアニメは一対一の熱い関係を描くという点ではよく成功していると思う。個々のキャラクターの人間描写の薄さは対応するキャラクターとの関係性の描写で十二分に補われている。その上、一対一関係と一対一関係の関係、具体的にはこより・あがりとざくろ・くるりの関係同士のぶつかり合いの描写も極めて優れている。9話、10話を観れば明らかである。

しかし、特定カップリング以外の一対一関係、あるいは11話における雀が原2年生組の入浴シーンや夜会話シーンのように複数人が一堂に会する場面における多人数間人間関係の描写はさほど上手く行っていない、端的に言えば会話にあまり面白味が感じられないように思われるのである。その原因は今まで縷々述べてきたように、個々のキャラクターの描写が特定キャラクターとの関係に偏って掘り下げられており、自立した人格の描写があまり緻密に行われていないからだろうと考えている。

もっともこのような問題を抱えていたからといって、灼熱の卓球娘の価値は殆ど毀損されない。灼熱の卓球娘は特定カップリングの一対一関係を楽しむアニメーションであると割り切ればそれで足りるし、その描写はずば抜けて優れているのだから。