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蝋板に鉄筆で

自由帳

1-5

あるコンテンツを他人から薦められることについての見解を略述する。

 

先だってあるコンテンツに対する見解の全てに耳を傾けるリソースを私達は持ちえないと主張したが、それ以前に、私達が摂取できるコンテンツの量にもまた限界があるのである。全てのコンテンツを楽しむどころかほんの少しずつ触れて確かめることすら非常に困難であるから、何らかの方法で選別する必要がある。他人の薦めるコンテンツを摂取するのは選別の一手段である。

 

さて、私は他人のお薦めコンテンツを積極的に採用することに好意的であるが、その最大の問題点を確認することは有意義であろう。すなわち、お薦めしてくれる当該他人の選別にどこまで信頼が置けるか、である。コンテンツを薦める他人を無作為に選出するのであれば、それはいわゆる世間で売れている流行物に飛び付くのと変わらないのであり、よいコンテンツを効果的に摂取することに繋がるのか、実に疑問である。つまり私達の判断対象がコンテンツそれ自体からコンテンツを摂取し評価する他人へと取って代わるわけである。

他人の評価の確度を検討するには、結局当該他人が薦めてくれたコンテンツに一度は触れてみる必要があろう。それが自分にどの程度適合するコンテンツだったか、そしてそれ以上に当該他人にとってどの程度適合するコンテンツだったかを確認し、当該他人との感性の距離を測り、当該他人の評価に自分の中でいかなる重み付けを与えるべきかを決定するのである。他人を知り、コンテンツを知り、翻って己を知るということである。