少女終末旅行

昨日『少女終末旅行』が最終回を迎えたので、最終回を読んで受けた感銘に絞って完結に述べる。

 

私は、最終回を迎える以前から、本作の世界が既に終わっており、上から下まで虚無で満たされていると考えていた。従って、チトとユーリが上を目指したとしても、そこには結局何もないだろう、だからチトとユーリのやっていることは無意味だ。大意このように考えていた。

実際、チトとユーリが辿り着いた世界の頂上には何もなかった。チトはユーリに問う、「私たち、これで正しかったのかな」と。もっと早く引き返していれば、食料のある場所を探し歩いていれば、運命が尽きることもなかったのではないか?

この問いに対するユーリの回答とそれに連なるエンディングこそまさに本最終回の白眉である。ユーリは答えるのだ、「生きるのは最高だったよね」と。世界の意味もあるべきだった生き方も分からない世界で、それでもなお生きることそれ自体を全肯定する結末を迎えるなどとは、私には思いもよらなかった。

エンディングも、私が当初予想していた二人の死で終わるという結末とは異なっていた。これから二人がどうするか、開かれているのである。勿論二人は長くは生きられないだろう。既に世界は終わっているのだから。でも、自ら死を選ぶシーンは描かれず、二人がこれからどうするかは二人がこれから決めるのである。恐らく二人は、まだもう少しだけ生きるのではないか。これまで生きてきた道筋は最高だったのだから。これからこの終わった世界で生きる道筋も、彼女達なら肯定できるだろう。

 

本作最終話のユーリの主張は、何らかの「祈り」であると言い得るように思われる。「祈り」という概念について、「祈り」概念を持ち出すことの適否を含めて、私は今のところ明晰な認識を持てていないので、また別の機会に議論したいと思う。

放課後のプレアデス

放課後のプレアデス4話において取り扱われるひかるの問題は極めて繊細であるところ,その言語化を簡潔に行っておく。

 

父の曲にソの音を書き入れたひかる,その箇所をずっと聴けなかったひかる。それは何故か。最後まで聴いたら,きっと泣いてしまうから。

ならばひかるが泣くことを恐れるのは何故か。何かを受け止められないから泣くのだとすればそれは何か。

ちっぽけな見栄で,親の愛を素直に受け止められない。差し当たり,ひかるの弱さがそこに示されている。それに本当は分かっていたんだろう。ひかるが楽譜にソの音を書き加えたことに父親が怒ってなんていないことを。そうでなくて,ひかるが書き入れたソの音ごとその曲を愛して,そうしたひかるを愛して,愛して,愛していたことを。

でも,ひかるは両親を愛していて,両親もひかるを愛していて,それなのに,ひかるのほんのほんの小さな見栄で,お互いに伝えられずにいる,伝わらずにいる。お互い分かっているはずなのに。こんなところだろうか。

けいおん!-4

けいおん!シリーズ全体の意義を簡潔に述べる。

けいおん1期は、①善なる人間が②自らの興味関心に即応した③小コミュニティを形成した場合の成功例を端的に示している。①②③の要素の全てが重要である。けいおん1期はあくまで善良な人間が集うことによるポジティブな作用を叙述する作品であり、悪質な人間が善良な人間に感化されて善を拡大することが可能かという難問には未だ挑戦していない。むしろ、コミュニティ形成の任意性と規模の極小性と二つの要素を駆使して、悪質な人間の参入を防いだ上で活動の質を保っている点に特徴があるということである。

けいおん2期においては、1期における良質なコミュニティの存在を前提として、コミュニティの時的存続可能性が問題とされる。軽音部は任意性に重要な基礎を置くコミュニティであり、存続の決定権はコミュニティの構成員に委ねられている。そして2期1話において、彼女らはコミュニティを存続させないことを総意でもって決定した。けいおん2期は、彼女らの決定の帰結と代償を24話ないし27話掛けて描いた物語であるとも捉えられる。

もっとも、けいおん2期はコミュニティの終了後における構成員の在り方について、十分煮詰まった解を提示しているとはいえない。構成員のうち、3年生組4人は進路を同じくしてしまうことでコミュニティの消滅の意義が曖昧になってしまうし、また3年生組が卒業して一人残される梓に対しても、唯が24話において「心が繋がっているから大丈夫だ」という趣旨の発言をするのみであり、コミュニティの消滅後に残された実質的な手当ての在り方は何ら明らかになっていない。ここにけいおん2期の限界があることは周知の通りである。

とはいえ、けいおん!シリーズが1期2期を通じて、良質のコミュニティの形成及びその存続の問題について明晰に意識した上で取り組んだことは疑いがない。なお残された問題が多いとしても、小規模コミュニティの理想的な在り方とその限界を示すという目標は十二分に果たされていると言えよう。

SHIROBAKO

SHIROBAKOは私にとって他のアニメで代替し得ない最高アニメの一つであり、決して語り尽くすことができない。そこで、ごく簡単な形で、SHIROBAKOの魅力を素描する。

本作は、本当にありふれた易しいテーマを、アニメ制作という特殊な素材で語るところに大きな特徴があると考える。両方の点が相俟って本作を名作たらしめている。まずテーマについて概略を述べるとすれば次の通りになる。

 

1.

本作のテーマは、①これから自分が何をしたいか、②①のように考えるのは何故か、の二つである。極めて簡明な問いであるとともに、いかなる筋道で回答に至るかはともかくとしても回答の幅は非常に広いと考えられる。これほど単純な問いに回答するためだけに、24話という潤沢な時間を用いているのであり、しかも決して飽きさせない。

本作のテーマにつき回答を与えるのは具体的に誰かという問題がある。これについては、①と②の問いの双方の回答者はあおいであると見るべきだと考える。勿論①については残りの主要メンバーたる絵麻、しずか、美沙、みどりの問題としても、十分な尺を取って描かれているし、②についても20話でみどりの問題として描かれている。しかし、あおいにおいては4話Bパートのあおいと絵麻との会話において①の問題が提起されて以降、回答を出せないままに19話まで引っ張っている。また①が解決するやいなや直ちに答えられなければならない②の問いについても、みどり他沢山の人々の回答を導きの石として、最終的な回答を得るに至っている。この過程から見れば、やはり①と②の問いに最も深刻に悩みかつ回答を出すことを迫られているのはあおいであると見るべきであろう。

 

フレームアームズ・ガール

標記の作品を鑑賞した。あまり私向きの作品ではなかったが、それでも感じ入るところはあり、また近年(と言い切れるほど昨今及びそれ以前の作品に詳しいわけでは全くないが)の流行(?)とでも言い得る人間関係の描写が為されていたように感じたので、備忘にメモを残しておく。

 

本作全体の趣旨から、源内あおとFAガールの関係は、差し当たり母娘関係に近似しうると言ってもそう大きく外したことにはならないだろう。ブキ子が12話BパートでFAガール達の為にクリスマスツリーを買うあおに対して言った言葉はその強い根拠となる。しかしながら、そこから進んで、どこが近似の限界なのか探る必要はあろう。

例えば、当然のことながら、あおとFAガールとの間には血縁関係はない。それにもかかわらず、あおはFAガールに無償の愛を注いでいる…とまで言えば言い過ぎだろうが、少なくとも非常に強い包容力で以ってFAガールの存在を受け入れている。人間関係の希望を拓く方向の主張があることになる。

加えて見逃し得ないのは、12話Bパートで轟雷があおの苗字を求めたこと及びあおがそれをいとも容易く轟雷に差し出したことだろう。血縁関係のない者が氏を得るのはつまるところ養親子関係の発生であるが、あおからすれば、現時点でのあおと轟雷の関係に養親子関係という近似値を与えたに過ぎないのだろう。では現時点でのあおと轟雷の関係は何に支えられるか。言うまでもなくFAガールのバトルデータ収集に留まらない思い出の数々によってである。

あまりに月並な結論ではあるけれど、思い出の蓄積を、友情以外の、恐らくは友情よりもっと尊い関係に紐付けたことは意義深いことと感じられる。

恋は光-2

『恋は光』の既刊部分を全て読み終えたが、本当に最高の作品だと感じている。しかしながら本作の何に言及すると有意味なのか、非常に悩んでいる。いや、有意味なことにコメントしなければならないという限定があるわけではないので、何をコメントしてもいいのかもしれないが、コメントしようとすると何か得体の知れない感情に襲われて、どうにもまとまらない。書こうとしていることが何も形にならないということだけこうして形にしておく。

恋は光

『恋は光』シリーズを読み始めている。本作は、登場人物が自身の感情それ自体を、感情の発生原因にまで遡りながら具体的に言語化することが徹底されており、従って精密な議論の対象にしやすいように思われる。他面それは読者の側もまた本格的な議論に堪え得る入念な準備を行う必要があることを意味する。そして私は現時点では何らの準備もなし得ていない。

それでもなお今言えそうなことは、本作を読むにあたっては、「恋愛とは何か」を読者自身が考えることよりも、①「恋愛とは何か」を考えるとはそもそもどういうことか、また「恋愛とは何か」を考える人々はどのような人々か、もう少し抽象的に広く捉えれば、②感情を言語化しようと試みる人々はいかなる特質を有するか、という問いを立てたほうがより建設的なのではないか、ということだけである。「恋愛とは何か」という問題を詰める作業を本作の登場人物が行っているとしても、読者自身も同じ問題に取り掛かる必要はなく、むしろその議論の筋を追って比較検討し、議論することの意味自体を考える必要があるのだろう。

そして喫緊の課題は、そう言いうる根拠は何かを言語で述べることである。