1-6

けいおん!1期を場の軽音部を主題に捉えたものとして理解する意義について考えていたが、その前提としてアニメにおける主題の位置付けを検討したところ混乱を来したので、その有様を記す。しかし結論としては意味のない考察に終始しているように思われる。

 

けいおん!に限った話でなく、あるアニメの主題が何かを考えることの意義は、そのアニメが現実のいかなる問題を切り出し、その問題に対していかなる条件下で妥当する解答を与えようとしているか検討する最初の足掛かりになることだと私は考えている。しかしながら、もとよりこの主張の当否が大問題である。そもそもあらゆるアニメに主題があると考えうるか。恐らく答えは否である。しかしあらゆるアニメに主題が必要かと言えば、それも答えは否であろう。あるアニメが何らの問題も提起せず、従って何らの解答を生まないとしても、あるアニメそれ自体が現実に対して何らかの意味や効果を持つことはあろう。その意味や効果を作品それ自体に内在する要素からのみ特定することは恐らく不可能であり、主題の問題提起とそれに対する解答が対応するタイプのアニメとは別の分析枠組で考察しなければならないだろう。もっともその対応というのも、視聴者自身の問題意識の反映と区別しうるのか、疑問なしとしない。

 

ここまで色々と考えてみたが、さしあたり全てのアニメを論じる必要はなく、従ってそのための枠組を用意する必要もないのである。であるからして、問題の拡散を防ぐべく、例えばけいおん!の話をするにしてもこのアニメがある問題を切り出してそれに対する解答を与えているということははじめに仮定しておき、その仮定が正しいこと並びに問題提起及び解答を、できる限りアニメに描かれている事柄を直接の根拠としながら述べていけばよいわけである。

けいおん!

私は、けいおん!は完全な作品であり、けいおん!!は完全とは言えないまでも非常に優れた作品だと考えている。そこで本作については委細を尽くして思うところを述べていきたいと考えているが、いざ言語化しようと思うと中々難しく、どうしても「良いものは良い、だから良い」という水準の言及に留まってしまう(あるいはそれが良い作品であることの証左なのかもしれない)。今回は、けいおん!の1期2期を通貫して理解するのに資するかもしれない見方の一つについて、前々から考えていたことの一部の頭出しを行う。

 

私はけいおん!の1期と2期は明確に異なるコンセプトで作られた作品だと考えている。あるいは、唯達の学年の変化に応じて1期を二つに分け、2期と合わせて三つの時期があると考えることができるかもしれない。すなわち、①1期8話までは人間関係の草創期、②1期9話以降は梓が入部したことのインパクトに軽音部が反応し、吸収し、受容する人間関係の変革期、③2期が人間関係の円熟期である。今更言うまでもないような理解であろう。これを換言すると、①が唯に対して人間関係が開かれた時期、②が梓に対して人間関係が開かれた時期、③が人間関係の閉じた時期だとも言えるだろう。そしてこの言い換えをバネにして、1期を場の軽音部の時期、2期を人の軽音部の時期と言えないかどうかということを、長い間考えているのである。

1-5

あるコンテンツを他人から薦められることについての見解を略述する。

 

先だってあるコンテンツに対する見解の全てに耳を傾けるリソースを私達は持ちえないと主張したが、それ以前に、私達が摂取できるコンテンツの量にもまた限界があるのである。全てのコンテンツを楽しむどころかほんの少しずつ触れて確かめることすら非常に困難であるから、何らかの方法で選別する必要がある。他人の薦めるコンテンツを摂取するのは選別の一手段である。

 

さて、私は他人のお薦めコンテンツを積極的に採用することに好意的であるが、その最大の問題点を確認することは有意義であろう。すなわち、お薦めしてくれる当該他人の選別にどこまで信頼が置けるか、である。コンテンツを薦める他人を無作為に選出するのであれば、それはいわゆる世間で売れている流行物に飛び付くのと変わらないのであり、よいコンテンツを効果的に摂取することに繋がるのか、実に疑問である。つまり私達の判断対象がコンテンツそれ自体からコンテンツを摂取し評価する他人へと取って代わるわけである。

他人の評価の確度を検討するには、結局当該他人が薦めてくれたコンテンツに一度は触れてみる必要があろう。それが自分にどの程度適合するコンテンツだったか、そしてそれ以上に当該他人にとってどの程度適合するコンテンツだったかを確認し、当該他人との感性の距離を測り、当該他人の評価に自分の中でいかなる重み付けを与えるべきかを決定するのである。他人を知り、コンテンツを知り、翻って己を知るということである。

谷間のゆり

バルザック『谷間のゆり』を読み終えたので、モルソーフ伯爵という人物について一言だけ述べてみる。

 

このモルソーフ伯爵という人物、長年の亡命生活ですっかり精神を病んだ果てに帰国し、その傷も癒えぬまま家中の者に暴虐の限りを尽くすという形で描かれているが、どうにも私には先天的な精神障害であるように見える。今風に言えばいわゆるアスペルガーということになろう。モルソーフ伯爵は、他人の気持ちを全く察することができず、家政を取り纏める何らの能力も持たず、そのくせ極度に神経過敏で自意識過剰な一面を持ち、絶えず家中で自分ばかりが犠牲になっているとの錯覚に囚われている人物である。

モルソーフ伯爵の妻アンリエットに主人公フェリックスが熱烈な恋愛感情を抱き、彼女に接近することは、とりもなおさずモルソーフ伯爵との関係に踏み入り、彼女の結婚生活における壮絶な苦痛を共有することであった。他者を察することのできないモルソーフ伯爵であるから、フェリックスの恋愛感情にも恐らく最後まで気付いていなかったのだろうと私は思うのだが、それでも自分が除け者にされることを極度に嫌う人物でもあるから、絶えずフェリックスとアンリエットの間に割り込み、あるいはフェリックスをむやみとバックギャモンの勝負に引きずり込んで引き留める。その鬱陶しさとやり場のない絶望感を身を以て知ることで、ますますアンリエットの守る貞淑の価値が高まるのである。

しかし、アンリエットが貞淑を貫き通す限りアンリエットはフェリックスのものにならない。フェリックスは結局肉欲に負けて軽薄なイギリス女との恋愛に溺れ、アンリエットを深く傷付ける。もとよりフェリックスは、アンリエットの貞淑のさらに内奥を知る由もなかったのである。

小林さんちのメイドラゴン-3

小林さんちのメイドラゴン4話を視聴したので、若干の感想を述べる。

 

1.

4話はまず、新キャラの才川リコの存在が大きい。実に可愛い。まだ出番が十分でなく、本作の人間関係の中に十分位置づけられていないので、次回以降もどんどん出演して欲しいと思っている。

次にファフニールとルコアの位置付けであるが、本作ではトールの保護者的存在として描かれているように思われる。トールの人間界での成長とまで言えば言い過ぎかもしれないが、何らかの変化を見守っていると言ったところだろう。

 

2.

本作全体と関連して4話で最も重要な点と思われるのは、人間界における排除と包摂の問題である。すなわち、ひとは自分と異なるものを恐れ排除する一方で、自分と異なるものであっても力ある者を仲間に取り込もうとする、という主張である。そのような人間に対してドラゴンはどう接するか。ここでカンナは必ずしも力で捻じ伏せるという方法を取らない。才川の前で嘘泣きをしてみせるなど、一見迂遠な方法でもって人間界に溶け込もうとする。ドラゴンの側からの譲歩である。

何故そうするのか。カンナは言う。「近くに居て、同じ時間の中に居るから、一緒に居たいって思えるのかも」と。つまり、たとえ人間の姿で過ごすことが少しばかり窮屈なあり方であるとしても、人間と目線を合わせてみるということである。3話の風呂のシーンにおける小林とトールの会話にも通底する考え方である。

人間とドラゴンは分かり合えるか、おそらく解答は得られない。しかし、たとえそれが束の間の平和に過ぎないとしても、一時の戯れだとしても、全く異なる価値観を持つ者同士が共に暮らすということに価値を見出そうとしている、と私には思われる。もっともその共に暮らすあり方をどのような言葉で表現すべきかについては、私は未だ確たる見解を持っていない。既に一種の疑似家族的な在り方であるという見解が提起されており、有力な見解のようにも思われるが、人間とドラゴンの生物学的な差からくる価値観の違いを取り込みうる枠組みか、疑問でもある。

 

3.

なお私は、人間が異物を排除する傾向を持つということを小林に提示させたのは、その主張が人間の分析としてある程度妥当性を持つとしても、通常ドラゴンが異物にどう接するのかという点が必ずしも明らかでなく、それと人間のやり方との妥協点を見出すという観点を欠くことから、若干先走りというか上滑りの感がないではないように思っている。私の問題意識に寄り過ぎた考え方ではあるが、ドラゴンが人間に合わせ、人間がそれを受け入れるという構造をもう少し捻らないと、異種間関係を先に進めるのは難しいのではないか。

2-4

登場人物の持つ悩みを処理する方法に関連して、ポッピンQの抱える問題点について一言だけ述べる。

ポッピンQは思春期を迎えてそれぞれ悩みを抱える五人の少女達が異世界に召喚され、人々との出会いや冒険を通じて成長を遂げる物語であると私は理解している。その成長とはすなわち彼女達が抱える悩みに対して何らかの回答を出し、悩みを解決するか又は解決する為の方向性を見出すことである。

しかしながら本作では、異世界に召喚された五人(注:正確には、五人のうち四人である。五人目との和解はストーリー上別の段階においてなされる)が互いに打ち解ける過程で、各々の抱える悩みの具体的な分析に入ることなく、皆「悩みを抱えている」という点において「同じ」であり、それゆえ友達乃至仲間として協働しうるという理屈で団結している。かつ、いうところの「同じ」問題を解決する方法と異世界を救う方法が五人で踊るダンスであるということになり、非常に大まかな形で異世界の問題及び五人の悩みの双方の解決が導かれる。

以上述べた通り、ポッピンQの抱える問題点は、複数人の抱える問題を一本化する際に生じた抽象化の失敗と、問題分析の拙劣さから生じた問題と問題解決方法との合理的関連性の薄さの二点に集約されると思われる。

2-3

前→2-2 - 蝋板に鉄筆で

めんま」の願いを叶えるという目標と「じんたん」の母親の遺志を叶えるという実態に齟齬がある点については既に指摘したところである。その齟齬を解消しうる解釈を探る。

実のところ、「めんま」の願いが実体として存在することを要求する必要があるのかは微妙な問題なのかもしれない。「めんま」の願いを叶える過程で、「めんま」に「じんたん」が言えなかった思いを伝えることと、超平和バスターズの面々の絆が次第に癒されていくことの二点に主眼を置くのであれば、「めんま」が現に願いを持っているか、「めんま」が実質的に「じんたん」の母親の使者であったかどうかはさしたる問題ではなく、生きている者が「めんま」の出現をきっかけにして何をしたかこそが重要だということになるからである。

しかしながら、ここまで考えてみてもなお本作には欠陥があると考える。それは、以前挙げた第二の欠陥、すなわち「各自の問題が単に提起されるだけに留まり、具体的な解決策が何ら示されていない」ということである。具体的には、最終話において神社のお堂の周りに超平和バスターズの面々が集まり、互いに心の中の蟠りを吐き出す場面である。心中を吐露することで、一見癒されたと思われた超平和バスターズの絆が実は全く癒されていなかったことが明らかになるのである。

私は、彼らの悩みがはじめて具体化され、それが互いにとって明らかになった段階がスタートラインであって、それらの悩みを解決すべく手を取り合うのか、あるいは喧嘩別れに終わるのか、何らかの道筋をつけてくれるものとばかり考えていた。しかし実際の筋書きはそうではなく、消えゆく「めんま」に皆が思いの丈を叫び、なんとなく(とでも表現するより仕方ないのである)問題が立ち消えになり、いまを生き始めるのである。話の全体が過去の清算に向けられていたにも関わらず、過去の清算は最も重要な局面において突然中断され、視聴者は完全に置いてきぼりを食らうことになる。

 

この点について、欠陥と捉えない方向で解釈することも一応可能ではあるのかもしれない。それは、超平和バスターズの絆を癒やすことも結局は「じんたん」の心を癒やすひとつの方法であると捉えることである。還元すると、超平和バスターズの絆が真に癒やされるかどうかは副次的な問題であり、「じんたん」が超平和バスターズの疎遠になった蟠りの存在を理解した段階で一応の解決が為されたと見て、超平和バスターズの面々各自が抱える具体的な問題は彼らがいまを生きることで漸次解決するという方向付けが為されたとみるのである。しかし、各自の問題を提起するだけしておいて、各自が問題を抱えていることを互いに理解することのみをもって良しとして、具体的な問題の解決に踏み込まないような作話が面白いのかは別問題であるし、私はそのような大雑把な展開を全く好まないのである。