蝋板に鉄筆で

自由帳

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あらゆる見解に対して寛容になることができないのは、私達が他人の見解を吟味するのに割き得るリソースが限られている以上やむを得ないことであるとして、どの範囲までならば寛容になることができるかを考えるのはなお有用である。換言すれば、どの範囲までコミュニケーションが成立しうるか、である。

恐らく二つの考え方があろう。見解の内容基準で割り切るか、主張者ベースで割り切るか、である。今回は前者のみを検討する。

 

まず第一に、見解の内容ベースでコミュニケーションを為し得る枠を決定する方法である。あるコンテンツに対して一定の範囲内に収まる見解を有する人が集まってそのコンテンツについて語り合うのである。その上コミュニティは必ずしも固定的であることを要しない。コンテンツごとに見解別コミュニティを組成してもよいわけである。

しかしながら、コンテンツに同種の見解を持った人々が集まってその見解を交換し合うことのみを行うことにどれほどの意義があるか、問われうる。勿論コンテンツに対して同種の見解を持つ人々と語り合うことはそれ自体心地良く、楽しいことである。また、コンテンツに対して有する見解が同種とは言え同一ではないのだから、互いの差異に敏感に反応し、分節して議論することで、よりコンテンツへの理解も深まり、ひいては互いの理解も深まることがあろう。しかし、次のような問い掛けが当然なされよう。すなわち、そのような作業はコンテンツに対して有する見解がより離れた人々の間で行われてこそより有意義なのではないか、全く異なる見解に至る思考や解釈の過程を理解することにこそ、翻って自らの見解をより深く省察し、さらに緻密なコンテンツの理解に至るための道があるのではないか、と。

この問いについて私は、次のように答えるだろう。すなわち、互いの差異に十分鋭敏な感覚を持つのである限り、コンテンツに対する見解が同種のものを比較するのであれ、それよりも距離のある見解を比較するのであれ、その検討作業は共に有意義である、検討作業の質が問題であって、見解の差は問題とならない、と。

 

…ここまで縷々述べてきたところで、私は幾つかの綻びに逢着した。見解基準でコミュニケーションの枠を画してしまう割り切りと、コンテンツに対する見解の差異を綿密に検討する根気は、どうにも容易に両立しうるようには思えない。見解基準でコミュニケーションの枠を切り分けるとすれば、その画定の段階では、ある一定の見解の一致率のようなものを想定して、実にあっさりと関係を切り分ける必要があるように思われるが、その粗雑さは後の検討作業に影響を及ぼさないでいられるだろうか。

さらに根本的な問題として、コンテンツに対する他人の見解を、誰かと語り合う前に認識することができるのか。見解基準で切り分ける、その切り分けるための見解を各々公開するための場をどのように設定しうるのか。見解を基準にコミュニケーションの枠を切り分ける案は、そもそも前提条件が整わないのではないか。

これらの重大な問いに対して端的に応答する能力及び時間を私は有していない。あるいは、これら重大な問いがいくつも出現すること自体が、方法の限界を示しているのかもしれない。そこで差し当たりこれらの問いは保留にして、次回は見解の主張者を基準にコミュニケーションの枠を切り分ける方法を検討したい。