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蝋板に鉄筆で

自由帳

2-3

前→2-2 - 蝋板に鉄筆で

めんま」の願いを叶えるという目標と「じんたん」の母親の遺志を叶えるという実態に齟齬がある点については既に指摘したところである。その齟齬を解消しうる解釈を探る。

実のところ、「めんま」の願いが実体として存在することを要求する必要があるのかは微妙な問題なのかもしれない。「めんま」の願いを叶える過程で、「めんま」に「じんたん」が言えなかった思いを伝えることと、超平和バスターズの面々の絆が次第に癒されていくことの二点に主眼を置くのであれば、「めんま」が現に願いを持っているか、「めんま」が実質的に「じんたん」の母親の使者であったかどうかはさしたる問題ではなく、生きている者が「めんま」の出現をきっかけにして何をしたかこそが重要だということになるからである。

しかしながら、ここまで考えてみてもなお本作には欠陥があると考える。それは、以前挙げた第二の欠陥、すなわち「各自の問題が単に提起されるだけに留まり、具体的な解決策が何ら示されていない」ということである。具体的には、最終話において神社のお堂の周りに超平和バスターズの面々が集まり、互いに心の中の蟠りを吐き出す場面である。心中を吐露することで、一見癒されたと思われた超平和バスターズの絆が実は全く癒されていなかったことが明らかになるのである。

私は、彼らの悩みがはじめて具体化され、それが互いにとって明らかになった段階がスタートラインであって、それらの悩みを解決すべく手を取り合うのか、あるいは喧嘩別れに終わるのか、何らかの道筋をつけてくれるものとばかり考えていた。しかし実際の筋書きはそうではなく、消えゆく「めんま」に皆が思いの丈を叫び、なんとなく(とでも表現するより仕方ないのである)問題が立ち消えになり、いまを生き始めるのである。話の全体が過去の清算に向けられていたにも関わらず、過去の清算は最も重要な局面において突然中断され、視聴者は完全に置いてきぼりを食らうことになる。

 

この点について、欠陥と捉えない方向で解釈することも一応可能ではあるのかもしれない。それは、超平和バスターズの絆を癒やすことも結局は「じんたん」の心を癒やすひとつの方法であると捉えることである。還元すると、超平和バスターズの絆が真に癒やされるかどうかは副次的な問題であり、「じんたん」が超平和バスターズの疎遠になった蟠りの存在を理解した段階で一応の解決が為されたと見て、超平和バスターズの面々各自が抱える具体的な問題は彼らがいまを生きることで漸次解決するという方向付けが為されたとみるのである。しかし、各自の問題を提起するだけしておいて、各自が問題を抱えていることを互いに理解することのみをもって良しとして、具体的な問題の解決に踏み込まないような作話が面白いのかは別問題であるし、私はそのような大雑把な展開を全く好まないのである。