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前→2 - 蝋板に鉄筆で

先の記事で、私は「めんま」の出現理由が「じんたん」の母親の遺した言葉に紐づけられているという点につき、これを当該作品の致命的欠陥と表現するつもりだった。しかし、このような話の筋書きが物語として全く不適当であるとは言えないのではないかという疑念に囚われ、「腑に落ちない」と些かぼかした形で表現するに留めた。再考が必要と考えたのである。そしてその結果、先の記事で提起した問題の第一の点について問題を具体化することに成功したので、これについて述べる。

 

まずそもそもの前提として、「めんま」は「じんたん」の母親が「めんま」に「息子をよろしく頼む」と言い遺したことを直接の理由として出現したというのは、本作の卒然と筋書きを追う限りでは、素直に承認しうる解釈だと思われる。もっともその出現理由について、「めんま」が現世に出現した時点で「めんま」自身はこれに関する記憶を失っており、それゆえに超平和バスターズの面々が再結集して「めんま」を成仏させるために諸々手を尽くすのであり、その手を尽くす過程が本作の主要部分を成す。

問題は、その主要部分たる超平和バスターズの面々が「めんま」の出現理由を探る過程において、彼らが「めんまの願い事を叶える」という目標を立てていたことにある。これは「めんまがじんたんの母親に頼まれた」という実際の出現理由と一致しない。つまり「めんま」は「じんたん」の母親の願いを叶えるべく現れた使者に過ぎず、「めんま」の願い事などというものは存在しないのではないか。そうだとすれば、「めんま」の願いを叶えるべく再結集した超平和バスターズとは一体何だったのか、「めんま」の願いとは何か、超平和バスターズの面々と共に考えてきた視聴者は一体何だったのか、大意このようなところが私が本作に不満を抱いていた第一の点であったわけである。言わば私は肩透かしを喰ったわけである。

もっとも、後から振り返ってこのような問題提起が妥当かどうか、疑いの余地なしとはしない。更にこのような設定上の齟齬と見えるものを善解する余地がないか、検討する予定である。

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あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。」という作品がある。本作は私が今まで観たアニメの中で最も悪い印象を残した作品である。今回は如何なる点が私に悪印象を残すのに寄与したか検討する。

本作の悪い点は、挙げようとすれば枚挙に遑がない。主人公「じんたん」の幼馴染のあだ名が「あなる」である点とか、「ゆきあつ」が「めんま」に扮して山を駆け巡るシーンとか、「あなる」が援助交際の疑いを掛けられて吊るし上げられるシーンとか、不快感を催させる以外に何の意味があるのか全く分からない、分かろうという気にもならない設定及びシーンがてんこ盛りなのだが、これらはいずれも視聴者アンフレンドリーな本作の性質を表すものではあれど、本質的な問題ではないと私は考える。私の中で本作の筋書きが腑に落ちないのは次の二点である。すなわち、

1.「めんま」の出現理由が「じんたん」の母親の遺した言葉に紐付けられている

2.各々の登場人物が抱える問題を叫ぶだけに留まり、何ら問題解決への道筋が示されていない

この二点は、私がアニメの筋書きに何を求めるかという点に関わると思われるので、更に検討する必要がある。その詳細は未だ煮詰まっていないから、明日以降に述べることとする。

小林さんちのメイドラゴン-2

昨日の主張に関して、小林さんちのメイドラゴンで描かれる人間関係に関して、小林とトールの関係に留まらず、3話時点で明らかになった範囲について補足する。本作の人間関係は構造上も繊細なグラデーションで構成されており、その絶妙な距離感を鑑賞するのが非常に心地良いという趣旨である。

 

3話時点での主な登場人物を整理すると次の通りである。

人間サイド:小林、滝谷、商店街の皆さん、ご近所さん

ドラゴンサイド:トール・カンナ・ファフニール・ルコア

 

これら登場人物を、小林及びトールから見た距離感という観点から、小林とトール以外の関係について整理してみる。

第一に小林とカンナの関係である。カンナはトールの知り合いのドラゴンであり、これにドラゴン界を暫くの間追放となって行き場がないという事情が加わって、小林の家に転がり込んだわけである。ここで私が重要だと考えるのは、トールの知り合いだというワンクッションを梃子にして小林がカンナを受け入れたことである。小林が、小林とトールの間にあった「約束」のようなものを媒介とせず、自分を信用することを求めるでもなく、ただカンナを受け入れて自分の傍に置くことを決めたということに意義がある。距離のある存在を受け入れる小林の寛容さがトールに、そして私達に非常な感銘を与えるのである。

第二に小林とファフニール、ルコアの関係であるが、これは3話時点で十分明らかになってはいないし、また問題になってもいないと思われるので差し置く。

第三にトールと滝谷の関係である。滝谷は小林の同僚でありかつ飲み友達である。このように小林との関係が良好であるから、トールは滝谷に悪感情を向ける。月並みな表現をすれば、無関心ではなくて嫌いなのである。小林と滝谷との距離感の近さが裏返ってトールと滝谷の距離感の相対的な近さとなって現れるのが私には興味深く思える。

このことは最後に検討するトールと商店街の皆さん、ご近所さんとの関係からより明らかとなる。トールは商店街の人々とは一見良好な関係を築いているように見えて、実は彼女の意識の中では適当にあしらっているに過ぎず、また騒音問題で揉めるご近所さんには愚かな人間と一括りにして不快感を剥き出しにする。そしてトールがこうした普通の人間達に向ける感情と小林が彼らに向ける人間という同朋への理解の間にこそ最も距離があるのであり、その距離を双方が自覚するシーン―例えば2話のひったくりのシーンであったり、3話で小林がトールを諭すシーンであったりといったシーン―における小林とトールのやり取りこそが、本作で最も趣深い空気を生んでいるのである。

 

本作は恐らくコメディにカテゴライズされるアニメだと思われるが、根底にある種族間の断絶、価値観の隔絶は断然シリアスである。そのシリアスさをほんわかとした絵柄と微妙な緊張感を孕んだ音楽に乗せて描き、尊い快感を与える。そこに本作の大きな魅力があると私は考える。

小林さんちのメイドラゴン

小林さんちのメイドラゴン」を3話まで視聴した。京アニ汎用でなくかつ丁寧に作られた絵柄、音楽、田村睦心さん演じる小林の声など加点ポイントは多々あるが、最も特筆すべき点は、各作中人物間の微妙な距離感だと思っている。この点について、差し当たり小林とトールの関係に絞って述べておく。

言うまでもなく、本作では人間とドラゴンの関係が問題となっている。小林は人間であり、トールはドラゴンである。それゆえに、二人の価値観が多くの点で絶対的に異なっていることがすぐに飲み込める。1話でトールが小林にメイドとしてのスキルを披露するシーン、2話の引ったくりのシーン、3話のご近所さんとのトラブルのシーン等々その違いは頻繁に顕在化する。

価値観が違うとして、どうするのか。トールは人間界で暮らす以上、人間界のルールに合わせる方向で応えざるを得ない。トールにとっては窮屈だろう。3話の風呂のシーンで人間の身体が窮屈だと言ったトールの言葉にもそれは現れていると思う。

それにもかかわらず、小林とトールは一緒に暮らしている。トールにとって人間が理解し得ない存在なのか、あるいは理解する必要もない存在なのか、現時点では明らかではないけれども、しかしトールは小林との暮らしに居心地の良さを感じている。それは小林もそうだ。その不安定さがこの作品の面白さだし、希望でもあると思う。

 

最後に一点、私は小林とトールの性別の異同よりも異種族であることのほうがずっと重要で本質的な問題だと思ってはいるが、それはそれとしても小林とトールの性別が生物学的に同じなのは、通常人間間で問題となる男女間の恋愛関係の文脈に回収されない関係を描きやすくなるという点において非常に適切な設定だと考えている。いち視聴者としても、自分の内面にある男女間の恋愛関係の文脈に抗って物語を理解するのは決して容易いことではないから、小林とトールが同性であるという設定を有難く感じる。

1

このブログを開設する意義は二つある。すなわち、

1.140字の枠を取り払ってより大きな観念を形成し、これを文章で表現すること

2.ある作品について他人と語るための準備作業を行うこと

である。以上を敷衍すると次のようになる。

 

1.

日頃Twitterを活動の場にしていると、思考が140字という字数制限に制約されてしまう。1post140字で表現しうる程度のことしか考えなくなる。これではいけない。

たとえ文字に起こせば140字を超える思考をしても、これを投稿するために思考を140字の単位で分割し、あるいは刈り込んでしまう。例えば160字分の思考をしたとして、文章表現を細かく弄って140字の枠に組み込むか、80字×2のTweetに分割するか、などといった些末な事柄に頭を使わなければならない。無意味だ。

140字の枠を取り払って、できればそれよりも大きな観念を形成するよう意識し、かつこれを言語化して表現する習慣を付けなければ、自分の思考力は著しく減退し、あるいはTwitterの形に極度に適応した形に歪められるのではないか。このような危惧からブログの開設に至った。

 

2.

ブログを開設するとして、一体何を書くか、である。

私はここ2、3年の間に、アニメを観るようになり、漫画を読むようになり、小説その他色々の本に触れる機会を増やしてきた。しかし、せっかくこれらの良質なコンテンツに触れても、これらについて他人と十分に語ることができていない。コンテンツをどのように受容し、どのような感情を抱き、どのような見解を持つに至ったか、事前に十分に言語化する作業が不足していたからである。

このような言語化に当たって、上述のようにTwitterというツールは不適当である。何の準備もなく140字程度で語れることは高が知れている。より大きな観念を事前に形成し、推敲を重ねて140字に凝縮するのであればあるいは意味があるのかもしれないが、そうでないならば140字はあまりに窮屈だ。私はコンテンツについてもっと自由に語りたい。語れるようになりたい。十分に言語化しておきたい。そのためのプラットフォームとして、適当なブログを開設してコンテンツに対する見解をまとめておくことは有益だろう。

 

ここまでの考察を踏まえ、このブログの目標は次の2点に絞られる。すなわち、

1.毎回141字以上書くこと

2.毎日続けること

である。これに加えて、「あるコンテンツに触れたときには必ず141字以上の見解を持ってこれをブログに書く」というルールを付け加えようかとも考えたが、このようなルールに縛られてコンテンツの摂取が遅れては本末転倒だし、どのコンテンツをどれだけ語るべきかには濃淡があるから(語る必要のないコンテンツがなんと多いことか!)、採用は見送った。

 

三日坊主にならないか早くも心配だが、さしあたり私の頭の中に、今まで摂取したコンテンツについて語り足りないことがまだ言語化されないままにぼんやりと浮かんでいるので、しばらくはこれらを言語化する作業に取り組みたい。