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前→1-3 - 蝋板に鉄筆で

あらゆる見解に対して寛容になることができないのは、私達が他人の見解を吟味するのに割き得るリソースが限られている以上やむを得ないことであるとして、どの範囲までならば寛容になることができるかを考えるのはなお有用である。換言すれば、どの範囲までコミュニケーションが成立しうるか、である。

恐らく二つの考え方があろう。見解の内容基準で割り切るか、主張者ベースで割り切るか、である。今回は前者のみを検討する。

 

まず第一に、見解の内容ベースでコミュニケーションを為し得る枠を決定する方法である。あるコンテンツに対して一定の範囲内に収まる見解を有する人が集まってそのコンテンツについて語り合うのである。その上コミュニティは必ずしも固定的であることを要しない。コンテンツごとに見解別コミュニティを組成してもよいわけである。

しかしながら、コンテンツに同種の見解を持った人々が集まってその見解を交換し合うことのみを行うことにどれほどの意義があるか、問われうる。勿論コンテンツに対して同種の見解を持つ人々と語り合うことはそれ自体心地良く、楽しいことである。また、コンテンツに対して有する見解が同種とは言え同一ではないのだから、互いの差異に敏感に反応し、分節して議論することで、よりコンテンツへの理解も深まり、ひいては互いの理解も深まることがあろう。しかし、次のような問い掛けが当然なされよう。すなわち、そのような作業はコンテンツに対して有する見解がより離れた人々の間で行われてこそより有意義なのではないか、全く異なる見解に至る思考や解釈の過程を理解することにこそ、翻って自らの見解をより深く省察し、さらに緻密なコンテンツの理解に至るための道があるのではないか、と。

この問いについて私は、次のように答えるだろう。すなわち、互いの差異に十分鋭敏な感覚を持つのである限り、コンテンツに対する見解が同種のものを比較するのであれ、それよりも距離のある見解を比較するのであれ、その検討作業は共に有意義である、検討作業の質が問題であって、見解の差は問題とならない、と。

 

…ここまで縷々述べてきたところで、私は幾つかの綻びに逢着した。見解基準でコミュニケーションの枠を画してしまう割り切りと、コンテンツに対する見解の差異を綿密に検討する根気は、どうにも容易に両立しうるようには思えない。見解基準でコミュニケーションの枠を切り分けるとすれば、その画定の段階では、ある一定の見解の一致率のようなものを想定して、実にあっさりと関係を切り分ける必要があるように思われるが、その粗雑さは後の検討作業に影響を及ぼさないでいられるだろうか。

さらに根本的な問題として、コンテンツに対する他人の見解を、誰かと語り合う前に認識することができるのか。見解基準で切り分ける、その切り分けるための見解を各々公開するための場をどのように設定しうるのか。見解を基準にコミュニケーションの枠を切り分ける案は、そもそも前提条件が整わないのではないか。

これらの重大な問いに対して端的に応答する能力及び時間を私は有していない。あるいは、これら重大な問いがいくつも出現すること自体が、方法の限界を示しているのかもしれない。そこで差し当たりこれらの問いは保留にして、次回は見解の主張者を基準にコミュニケーションの枠を切り分ける方法を検討したい。

1-3

オタクコミュニティの内部における寛容について一言する。このテーマは、けいおん!について述べる際の前提になると私は考えるので、早い段階で言及しておく必要がある。

ひとがあるコンテンツに触れたときに持ち得る見解は多種多様であり、自分の持つ見解と異なる、あるいは相反する見解を有する人間を見出すのは実に容易いことである。従って、彼らとどう接するべきかについてひとは何らかの立場に立たなければならない。コンテンツに対して有する見解を語り合う上では当然のことである。

さて、異なる見解にどう対応するか、様々な立場が考えられるところであるが、ここでは「多様な見解に寛容な態度を取るべきであり、見解の自由な表現を妨げないよう心掛ける」という立場に対する私の見解に絞って述べる。まず後段に関しては、このような立場を相互に承認する限りで認められると考える。他人がコンテンツに対して如何なる見解を持とうと全く自由であるし、その見解を表明することも、それが別の人の見解の表明に制約を加えるものでなければ当然自由になされるべきものである。

しかしながら、前段に関しては、まず寛容の意義が問題となる。寛容を、他人に自らの見解を自由に言わせておくだけのことと捉えるのであれば前段の主張も認められようが、それでは後段の主張と差異がないから、ここでは寛容を別の意義と見る必要がある。そこで、寛容をあらゆる見解を一聴の価値あるものと捉えて耳を傾けるべきであるという趣旨と捉えることとする。しかしもしそうであるとすれば、前段の主張は無条件に賛成できるものではなくなる。私達はあらゆる見解に対して耳を傾けるほどのリソースを有していないのであり、それゆえあらゆる見解にこのような意味で寛容であることは不可能である。そしてどの見解に耳を傾けるべきか、私達は何らかの基準を持たなければならない。次なる問題は、如何にしてその基準を設けるかであり、更に検討を要する。

1-2

あるコンテンツについて他人と語ることに隣接すると思われる、あるコンテンツを他人に薦めることについて若干の見解を述べる。

あるコンテンツを他人に薦める場合、これについて語る場合と異なって、事前に見解を言語化しておく必要がないことが経験上分かっている。極端に言えば、「これ面白いよ、読んで/観て/聞いてみてよ」と言う程度で事足りてしまう。その上恐らく、コンテンツに対する見解を言語化しておかなかったからといって推薦の質が下がるということも特になさそうである。あるコンテンツを自分が摂取した時に生じた感覚が、適切に当該コンテンツと紐付けられて記憶されていればそれで十分なようだ。

ここまで考えてみて、コンテンツに対する見解を言語化する訓練だけでは、コンテンツを十全に味わってこれを他者と語り合う能力は必ずしも得られないのではないかという疑問が湧く。あるコンテンツを摂取した時に何ら感銘を受けないのであれば、そもそも言語化すべき感覚がないのだから、他者と語りようがないわけである。イメージを言語化するだけでは足りない。鮮烈な、時間を掛けて語るに足るようなイメージを得なければならない。そのような素晴らしいコンテンツを探求しなければならない。

2-2

前→2 - 蝋板に鉄筆で

先の記事で、私は「めんま」の出現理由が「じんたん」の母親の遺した言葉に紐づけられているという点につき、これを当該作品の致命的欠陥と表現するつもりだった。しかし、このような話の筋書きが物語として全く不適当であるとは言えないのではないかという疑念に囚われ、「腑に落ちない」と些かぼかした形で表現するに留めた。再考が必要と考えたのである。そしてその結果、先の記事で提起した問題の第一の点について問題を具体化することに成功したので、これについて述べる。

 

まずそもそもの前提として、「めんま」は「じんたん」の母親が「めんま」に「息子をよろしく頼む」と言い遺したことを直接の理由として出現したというのは、本作の卒然と筋書きを追う限りでは、素直に承認しうる解釈だと思われる。もっともその出現理由について、「めんま」が現世に出現した時点で「めんま」自身はこれに関する記憶を失っており、それゆえに超平和バスターズの面々が再結集して「めんま」を成仏させるために諸々手を尽くすのであり、その手を尽くす過程が本作の主要部分を成す。

問題は、その主要部分たる超平和バスターズの面々が「めんま」の出現理由を探る過程において、彼らが「めんまの願い事を叶える」という目標を立てていたことにある。これは「めんまがじんたんの母親に頼まれた」という実際の出現理由と一致しない。つまり「めんま」は「じんたん」の母親の願いを叶えるべく現れた使者に過ぎず、「めんま」の願い事などというものは存在しないのではないか。そうだとすれば、「めんま」の願いを叶えるべく再結集した超平和バスターズとは一体何だったのか、「めんま」の願いとは何か、超平和バスターズの面々と共に考えてきた視聴者は一体何だったのか、大意このようなところが私が本作に不満を抱いていた第一の点であったわけである。言わば私は肩透かしを喰ったわけである。

もっとも、後から振り返ってこのような問題提起が妥当かどうか、疑いの余地なしとはしない。更にこのような設定上の齟齬と見えるものを善解する余地がないか、検討する予定である。

2

あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。」という作品がある。本作は私が今まで観たアニメの中で最も悪い印象を残した作品である。今回は如何なる点が私に悪印象を残すのに寄与したか検討する。

本作の悪い点は、挙げようとすれば枚挙に遑がない。主人公「じんたん」の幼馴染のあだ名が「あなる」である点とか、「ゆきあつ」が「めんま」に扮して山を駆け巡るシーンとか、「あなる」が援助交際の疑いを掛けられて吊るし上げられるシーンとか、不快感を催させる以外に何の意味があるのか全く分からない、分かろうという気にもならない設定及びシーンがてんこ盛りなのだが、これらはいずれも視聴者アンフレンドリーな本作の性質を表すものではあれど、本質的な問題ではないと私は考える。私の中で本作の筋書きが腑に落ちないのは次の二点である。すなわち、

1.「めんま」の出現理由が「じんたん」の母親の遺した言葉に紐付けられている

2.各々の登場人物が抱える問題を叫ぶだけに留まり、何ら問題解決への道筋が示されていない

この二点は、私がアニメの筋書きに何を求めるかという点に関わると思われるので、更に検討する必要がある。その詳細は未だ煮詰まっていないから、明日以降に述べることとする。

小林さんちのメイドラゴン-2

昨日の主張に関して、小林さんちのメイドラゴンで描かれる人間関係に関して、小林とトールの関係に留まらず、3話時点で明らかになった範囲について補足する。本作の人間関係は構造上も繊細なグラデーションで構成されており、その絶妙な距離感を鑑賞するのが非常に心地良いという趣旨である。

 

3話時点での主な登場人物を整理すると次の通りである。

人間サイド:小林、滝谷、商店街の皆さん、ご近所さん

ドラゴンサイド:トール・カンナ・ファフニール・ルコア

 

これら登場人物を、小林及びトールから見た距離感という観点から、小林とトール以外の関係について整理してみる。

第一に小林とカンナの関係である。カンナはトールの知り合いのドラゴンであり、これにドラゴン界を暫くの間追放となって行き場がないという事情が加わって、小林の家に転がり込んだわけである。ここで私が重要だと考えるのは、トールの知り合いだというワンクッションを梃子にして小林がカンナを受け入れたことである。小林が、小林とトールの間にあった「約束」のようなものを媒介とせず、自分を信用することを求めるでもなく、ただカンナを受け入れて自分の傍に置くことを決めたということに意義がある。距離のある存在を受け入れる小林の寛容さがトールに、そして私達に非常な感銘を与えるのである。

第二に小林とファフニール、ルコアの関係であるが、これは3話時点で十分明らかになってはいないし、また問題になってもいないと思われるので差し置く。

第三にトールと滝谷の関係である。滝谷は小林の同僚でありかつ飲み友達である。このように小林との関係が良好であるから、トールは滝谷に悪感情を向ける。月並みな表現をすれば、無関心ではなくて嫌いなのである。小林と滝谷との距離感の近さが裏返ってトールと滝谷の距離感の相対的な近さとなって現れるのが私には興味深く思える。

このことは最後に検討するトールと商店街の皆さん、ご近所さんとの関係からより明らかとなる。トールは商店街の人々とは一見良好な関係を築いているように見えて、実は彼女の意識の中では適当にあしらっているに過ぎず、また騒音問題で揉めるご近所さんには愚かな人間と一括りにして不快感を剥き出しにする。そしてトールがこうした普通の人間達に向ける感情と小林が彼らに向ける人間という同朋への理解の間にこそ最も距離があるのであり、その距離を双方が自覚するシーン―例えば2話のひったくりのシーンであったり、3話で小林がトールを諭すシーンであったりといったシーン―における小林とトールのやり取りこそが、本作で最も趣深い空気を生んでいるのである。

 

本作は恐らくコメディにカテゴライズされるアニメだと思われるが、根底にある種族間の断絶、価値観の隔絶は断然シリアスである。そのシリアスさをほんわかとした絵柄と微妙な緊張感を孕んだ音楽に乗せて描き、尊い快感を与える。そこに本作の大きな魅力があると私は考える。

小林さんちのメイドラゴン

小林さんちのメイドラゴン」を3話まで視聴した。京アニ汎用でなくかつ丁寧に作られた絵柄、音楽、田村睦心さん演じる小林の声など加点ポイントは多々あるが、最も特筆すべき点は、各作中人物間の微妙な距離感だと思っている。この点について、差し当たり小林とトールの関係に絞って述べておく。

言うまでもなく、本作では人間とドラゴンの関係が問題となっている。小林は人間であり、トールはドラゴンである。それゆえに、二人の価値観が多くの点で絶対的に異なっていることがすぐに飲み込める。1話でトールが小林にメイドとしてのスキルを披露するシーン、2話の引ったくりのシーン、3話のご近所さんとのトラブルのシーン等々その違いは頻繁に顕在化する。

価値観が違うとして、どうするのか。トールは人間界で暮らす以上、人間界のルールに合わせる方向で応えざるを得ない。トールにとっては窮屈だろう。3話の風呂のシーンで人間の身体が窮屈だと言ったトールの言葉にもそれは現れていると思う。

それにもかかわらず、小林とトールは一緒に暮らしている。トールにとって人間が理解し得ない存在なのか、あるいは理解する必要もない存在なのか、現時点では明らかではないけれども、しかしトールは小林との暮らしに居心地の良さを感じている。それは小林もそうだ。その不安定さがこの作品の面白さだし、希望でもあると思う。

 

最後に一点、私は小林とトールの性別の異同よりも異種族であることのほうがずっと重要で本質的な問題だと思ってはいるが、それはそれとしても小林とトールの性別が生物学的に同じなのは、通常人間間で問題となる男女間の恋愛関係の文脈に回収されない関係を描きやすくなるという点において非常に適切な設定だと考えている。いち視聴者としても、自分の内面にある男女間の恋愛関係の文脈に抗って物語を理解するのは決して容易いことではないから、小林とトールが同性であるという設定を有難く感じる。