谷間のゆり

バルザック『谷間のゆり』を読み終えたので、モルソーフ伯爵という人物について一言だけ述べてみる。

 

このモルソーフ伯爵という人物、長年の亡命生活ですっかり精神を病んだ果てに帰国し、その傷も癒えぬまま家中の者に暴虐の限りを尽くすという形で描かれているが、どうにも私には先天的な精神障害であるように見える。今風に言えばいわゆるアスペルガーということになろう。モルソーフ伯爵は、他人の気持ちを全く察することができず、家政を取り纏める何らの能力も持たず、そのくせ極度に神経過敏で自意識過剰な一面を持ち、絶えず家中で自分ばかりが犠牲になっているとの錯覚に囚われている人物である。

モルソーフ伯爵の妻アンリエットに主人公フェリックスが熱烈な恋愛感情を抱き、彼女に接近することは、とりもなおさずモルソーフ伯爵との関係に踏み入り、彼女の結婚生活における壮絶な苦痛を共有することであった。他者を察することのできないモルソーフ伯爵であるから、フェリックスの恋愛感情にも恐らく最後まで気付いていなかったのだろうと私は思うのだが、それでも自分が除け者にされることを極度に嫌う人物でもあるから、絶えずフェリックスとアンリエットの間に割り込み、あるいはフェリックスをむやみとバックギャモンの勝負に引きずり込んで引き留める。その鬱陶しさとやり場のない絶望感を身を以て知ることで、ますますアンリエットの守る貞淑の価値が高まるのである。

しかし、アンリエットが貞淑を貫き通す限りアンリエットはフェリックスのものにならない。フェリックスは結局肉欲に負けて軽薄なイギリス女との恋愛に溺れ、アンリエットを深く傷付ける。もとよりフェリックスは、アンリエットの貞淑のさらに内奥を知る由もなかったのである。

小林さんちのメイドラゴン-3

小林さんちのメイドラゴン4話を視聴したので、若干の感想を述べる。

 

1.

4話はまず、新キャラの才川リコの存在が大きい。実に可愛い。まだ出番が十分でなく、本作の人間関係の中に十分位置づけられていないので、次回以降もどんどん出演して欲しいと思っている。

次にファフニールとルコアの位置付けであるが、本作ではトールの保護者的存在として描かれているように思われる。トールの人間界での成長とまで言えば言い過ぎかもしれないが、何らかの変化を見守っていると言ったところだろう。

 

2.

本作全体と関連して4話で最も重要な点と思われるのは、人間界における排除と包摂の問題である。すなわち、ひとは自分と異なるものを恐れ排除する一方で、自分と異なるものであっても力ある者を仲間に取り込もうとする、という主張である。そのような人間に対してドラゴンはどう接するか。ここでカンナは必ずしも力で捻じ伏せるという方法を取らない。才川の前で嘘泣きをしてみせるなど、一見迂遠な方法でもって人間界に溶け込もうとする。ドラゴンの側からの譲歩である。

何故そうするのか。カンナは言う。「近くに居て、同じ時間の中に居るから、一緒に居たいって思えるのかも」と。つまり、たとえ人間の姿で過ごすことが少しばかり窮屈なあり方であるとしても、人間と目線を合わせてみるということである。3話の風呂のシーンにおける小林とトールの会話にも通底する考え方である。

人間とドラゴンは分かり合えるか、おそらく解答は得られない。しかし、たとえそれが束の間の平和に過ぎないとしても、一時の戯れだとしても、全く異なる価値観を持つ者同士が共に暮らすということに価値を見出そうとしている、と私には思われる。もっともその共に暮らすあり方をどのような言葉で表現すべきかについては、私は未だ確たる見解を持っていない。既に一種の疑似家族的な在り方であるという見解が提起されており、有力な見解のようにも思われるが、人間とドラゴンの生物学的な差からくる価値観の違いを取り込みうる枠組みか、疑問でもある。

 

3.

なお私は、人間が異物を排除する傾向を持つということを小林に提示させたのは、その主張が人間の分析としてある程度妥当性を持つとしても、通常ドラゴンが異物にどう接するのかという点が必ずしも明らかでなく、それと人間のやり方との妥協点を見出すという観点を欠くことから、若干先走りというか上滑りの感がないではないように思っている。私の問題意識に寄り過ぎた考え方ではあるが、ドラゴンが人間に合わせ、人間がそれを受け入れるという構造をもう少し捻らないと、異種間関係を先に進めるのは難しいのではないか。

2-4

登場人物の持つ悩みを処理する方法に関連して、ポッピンQの抱える問題点について一言だけ述べる。

ポッピンQは思春期を迎えてそれぞれ悩みを抱える五人の少女達が異世界に召喚され、人々との出会いや冒険を通じて成長を遂げる物語であると私は理解している。その成長とはすなわち彼女達が抱える悩みに対して何らかの回答を出し、悩みを解決するか又は解決する為の方向性を見出すことである。

しかしながら本作では、異世界に召喚された五人(注:正確には、五人のうち四人である。五人目との和解はストーリー上別の段階においてなされる)が互いに打ち解ける過程で、各々の抱える悩みの具体的な分析に入ることなく、皆「悩みを抱えている」という点において「同じ」であり、それゆえ友達乃至仲間として協働しうるという理屈で団結している。かつ、いうところの「同じ」問題を解決する方法と異世界を救う方法が五人で踊るダンスであるということになり、非常に大まかな形で異世界の問題及び五人の悩みの双方の解決が導かれる。

以上述べた通り、ポッピンQの抱える問題点は、複数人の抱える問題を一本化する際に生じた抽象化の失敗と、問題分析の拙劣さから生じた問題と問題解決方法との合理的関連性の薄さの二点に集約されると思われる。

2-3

前→2-2 - 蝋板に鉄筆で

めんま」の願いを叶えるという目標と「じんたん」の母親の遺志を叶えるという実態に齟齬がある点については既に指摘したところである。その齟齬を解消しうる解釈を探る。

実のところ、「めんま」の願いが実体として存在することを要求する必要があるのかは微妙な問題なのかもしれない。「めんま」の願いを叶える過程で、「めんま」に「じんたん」が言えなかった思いを伝えることと、超平和バスターズの面々の絆が次第に癒されていくことの二点に主眼を置くのであれば、「めんま」が現に願いを持っているか、「めんま」が実質的に「じんたん」の母親の使者であったかどうかはさしたる問題ではなく、生きている者が「めんま」の出現をきっかけにして何をしたかこそが重要だということになるからである。

しかしながら、ここまで考えてみてもなお本作には欠陥があると考える。それは、以前挙げた第二の欠陥、すなわち「各自の問題が単に提起されるだけに留まり、具体的な解決策が何ら示されていない」ということである。具体的には、最終話において神社のお堂の周りに超平和バスターズの面々が集まり、互いに心の中の蟠りを吐き出す場面である。心中を吐露することで、一見癒されたと思われた超平和バスターズの絆が実は全く癒されていなかったことが明らかになるのである。

私は、彼らの悩みがはじめて具体化され、それが互いにとって明らかになった段階がスタートラインであって、それらの悩みを解決すべく手を取り合うのか、あるいは喧嘩別れに終わるのか、何らかの道筋をつけてくれるものとばかり考えていた。しかし実際の筋書きはそうではなく、消えゆく「めんま」に皆が思いの丈を叫び、なんとなく(とでも表現するより仕方ないのである)問題が立ち消えになり、いまを生き始めるのである。話の全体が過去の清算に向けられていたにも関わらず、過去の清算は最も重要な局面において突然中断され、視聴者は完全に置いてきぼりを食らうことになる。

 

この点について、欠陥と捉えない方向で解釈することも一応可能ではあるのかもしれない。それは、超平和バスターズの絆を癒やすことも結局は「じんたん」の心を癒やすひとつの方法であると捉えることである。還元すると、超平和バスターズの絆が真に癒やされるかどうかは副次的な問題であり、「じんたん」が超平和バスターズの疎遠になった蟠りの存在を理解した段階で一応の解決が為されたと見て、超平和バスターズの面々各自が抱える具体的な問題は彼らがいまを生きることで漸次解決するという方向付けが為されたとみるのである。しかし、各自の問題を提起するだけしておいて、各自が問題を抱えていることを互いに理解することのみをもって良しとして、具体的な問題の解決に踏み込まないような作話が面白いのかは別問題であるし、私はそのような大雑把な展開を全く好まないのである。

1-4

前→1-3 - 蝋板に鉄筆で

あらゆる見解に対して寛容になることができないのは、私達が他人の見解を吟味するのに割き得るリソースが限られている以上やむを得ないことであるとして、どの範囲までならば寛容になることができるかを考えるのはなお有用である。換言すれば、どの範囲までコミュニケーションが成立しうるか、である。

恐らく二つの考え方があろう。見解の内容基準で割り切るか、主張者ベースで割り切るか、である。今回は前者のみを検討する。

 

まず第一に、見解の内容ベースでコミュニケーションを為し得る枠を決定する方法である。あるコンテンツに対して一定の範囲内に収まる見解を有する人が集まってそのコンテンツについて語り合うのである。その上コミュニティは必ずしも固定的であることを要しない。コンテンツごとに見解別コミュニティを組成してもよいわけである。

しかしながら、コンテンツに同種の見解を持った人々が集まってその見解を交換し合うことのみを行うことにどれほどの意義があるか、問われうる。勿論コンテンツに対して同種の見解を持つ人々と語り合うことはそれ自体心地良く、楽しいことである。また、コンテンツに対して有する見解が同種とは言え同一ではないのだから、互いの差異に敏感に反応し、分節して議論することで、よりコンテンツへの理解も深まり、ひいては互いの理解も深まることがあろう。しかし、次のような問い掛けが当然なされよう。すなわち、そのような作業はコンテンツに対して有する見解がより離れた人々の間で行われてこそより有意義なのではないか、全く異なる見解に至る思考や解釈の過程を理解することにこそ、翻って自らの見解をより深く省察し、さらに緻密なコンテンツの理解に至るための道があるのではないか、と。

この問いについて私は、次のように答えるだろう。すなわち、互いの差異に十分鋭敏な感覚を持つのである限り、コンテンツに対する見解が同種のものを比較するのであれ、それよりも距離のある見解を比較するのであれ、その検討作業は共に有意義である、検討作業の質が問題であって、見解の差は問題とならない、と。

 

…ここまで縷々述べてきたところで、私は幾つかの綻びに逢着した。見解基準でコミュニケーションの枠を画してしまう割り切りと、コンテンツに対する見解の差異を綿密に検討する根気は、どうにも容易に両立しうるようには思えない。見解基準でコミュニケーションの枠を切り分けるとすれば、その画定の段階では、ある一定の見解の一致率のようなものを想定して、実にあっさりと関係を切り分ける必要があるように思われるが、その粗雑さは後の検討作業に影響を及ぼさないでいられるだろうか。

さらに根本的な問題として、コンテンツに対する他人の見解を、誰かと語り合う前に認識することができるのか。見解基準で切り分ける、その切り分けるための見解を各々公開するための場をどのように設定しうるのか。見解を基準にコミュニケーションの枠を切り分ける案は、そもそも前提条件が整わないのではないか。

これらの重大な問いに対して端的に応答する能力及び時間を私は有していない。あるいは、これら重大な問いがいくつも出現すること自体が、方法の限界を示しているのかもしれない。そこで差し当たりこれらの問いは保留にして、次回は見解の主張者を基準にコミュニケーションの枠を切り分ける方法を検討したい。

1-3

オタクコミュニティの内部における寛容について一言する。このテーマは、けいおん!について述べる際の前提になると私は考えるので、早い段階で言及しておく必要がある。

ひとがあるコンテンツに触れたときに持ち得る見解は多種多様であり、自分の持つ見解と異なる、あるいは相反する見解を有する人間を見出すのは実に容易いことである。従って、彼らとどう接するべきかについてひとは何らかの立場に立たなければならない。コンテンツに対して有する見解を語り合う上では当然のことである。

さて、異なる見解にどう対応するか、様々な立場が考えられるところであるが、ここでは「多様な見解に寛容な態度を取るべきであり、見解の自由な表現を妨げないよう心掛ける」という立場に対する私の見解に絞って述べる。まず後段に関しては、このような立場を相互に承認する限りで認められると考える。他人がコンテンツに対して如何なる見解を持とうと全く自由であるし、その見解を表明することも、それが別の人の見解の表明に制約を加えるものでなければ当然自由になされるべきものである。

しかしながら、前段に関しては、まず寛容の意義が問題となる。寛容を、他人に自らの見解を自由に言わせておくだけのことと捉えるのであれば前段の主張も認められようが、それでは後段の主張と差異がないから、ここでは寛容を別の意義と見る必要がある。そこで、寛容をあらゆる見解を一聴の価値あるものと捉えて耳を傾けるべきであるという趣旨と捉えることとする。しかしもしそうであるとすれば、前段の主張は無条件に賛成できるものではなくなる。私達はあらゆる見解に対して耳を傾けるほどのリソースを有していないのであり、それゆえあらゆる見解にこのような意味で寛容であることは不可能である。そしてどの見解に耳を傾けるべきか、私達は何らかの基準を持たなければならない。次なる問題は、如何にしてその基準を設けるかであり、更に検討を要する。

1-2

あるコンテンツについて他人と語ることに隣接すると思われる、あるコンテンツを他人に薦めることについて若干の見解を述べる。

あるコンテンツを他人に薦める場合、これについて語る場合と異なって、事前に見解を言語化しておく必要がないことが経験上分かっている。極端に言えば、「これ面白いよ、読んで/観て/聞いてみてよ」と言う程度で事足りてしまう。その上恐らく、コンテンツに対する見解を言語化しておかなかったからといって推薦の質が下がるということも特になさそうである。あるコンテンツを自分が摂取した時に生じた感覚が、適切に当該コンテンツと紐付けられて記憶されていればそれで十分なようだ。

ここまで考えてみて、コンテンツに対する見解を言語化する訓練だけでは、コンテンツを十全に味わってこれを他者と語り合う能力は必ずしも得られないのではないかという疑問が湧く。あるコンテンツを摂取した時に何ら感銘を受けないのであれば、そもそも言語化すべき感覚がないのだから、他者と語りようがないわけである。イメージを言語化するだけでは足りない。鮮烈な、時間を掛けて語るに足るようなイメージを得なければならない。そのような素晴らしいコンテンツを探求しなければならない。